ZARDの坂井泉水が亡くなってから早くも10年の月日が流れました。彼女の音楽にかけるストイックな姿勢は、今でもスタッフの記憶に鮮明に残っています。当時を振り返って坂井泉水の人生を追ってみました。
坂井泉水の本名や年齢は?
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坂井泉水の本名は、蒲池幸子。1967年2月生まれで神奈川県出身です。ZARDのボーカルとして一世を風靡しましたが、彼女の個人情報や生活ぶりなど、詳細についてはほとんど知られていません。ZARDでデビューする以前は実は岡本夏生らとレースクイーンとして2年ほど、グラビアの世界にいました。しかし本来彼女は歌手志望で、当時所属していたスターダストプロモーションからビーイングに移籍をして、見事歌手デビューを果たします。
坂井泉水が電車通勤
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ZARDとしての最初の’大ヒットとなったのが「負けないで」93年に164万枚を超える売り上げとなりました。その後も「揺れる思い」「マイフレンド」など100万枚をゆうに超える大ヒットを数々と送り出したヒットメーカーに成長します。しかし一切テレビに出演することもなく、彼女の歌手生活のなかで、ライブでコンサートをしたのは、99年と2004年の2回だけでした。そんなに大ブレイクしても、坂井はいつも自然体で、普段のジーンズにTシャツの服装が派手になるわけでも無かったそうです。レコーディングはたいてい夕方から始まることが多く、六本木のスタジオにも、坂井は母と同居する自宅から、電車で通ってきたそうです。スタジオでの収録はたいてい夜遅くなることも多く、帰りはスタッフの車で送ってもらうこともしばしばだったそうですが、坂井はペーパードライバーで、自宅からは常に電車を利用していたようです。大阪のスタジオでレコーディングがあるときも、本人自ら、大きなバッグをゴロゴロと引いて、東京から新幹線で通ってきたそうです。つねにジーンズやパンツにダークなカラーのジャケットか、カジュアルなトップ、深々とかぶった帽子で、一般の人は、まさかZARDの坂井泉水だとは予想も出来なかったと言います。
坂井泉水の音楽にかける想い
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ZARDが初めてのシングル負けないでを録音した時からの、レーコディングエンジニアを務めた島田氏が、最後のレコーディングとなってしまった2006年の「グロリアスマインド」について語りました。坂井はこのレコーディングが決定した時はすでに体調を壊していて、スタジオにも母親に付き添われてやってきました。さびの部分だけはとっておかないと、タイアップの企画に間に合わないということで、病気の身体をおして、坂井がスタジオに現れたのです。坂井は録音ブースに入ると、いつものように外からは見えないようにカーテンが閉められます。これは坂井と島田の間では当たり前の事。坂井が周囲の目を気にせずに、大きな口を開けて歌だけに集中できるようにと、録音はカーテンに遮断されたままで行われるのでした。早速テイク1を回し始めると、坂井の歌声は、まるで全盛期を彷彿とさせるかのような力強いものだったと言います。島田が自分の耳を疑うほど、坂井のコンディションはパーフェクトでした。3テイクほど録音して、坂井はスタジオを後にします。録音はわずか30分ほど。スタジオに残された島田は、あまりの完成度にしばらく動けなかったと言います。たとえ病床にあっても、坂井の歌と音楽にかける情熱はつねに100%だったのではないでしょうか。
坂井泉水の死因
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坂井泉水は2000年ごろから、子宮筋腫・子宮内膜症・卵巣のう腫など、度重なる病症に悩まされていました。2006年の4月に子宮がんが見つかり、手術をしましたが、翌年の2007年4月に肺への転移が見つかり、再び入院をします。坂井の事故はその闘病治療中に起こります。5月26日早朝、日課にしていた散歩に出た坂井は、階段から足を踏み外し、頭部を強く打撲し、倒れて血を流しているところを通行人に発見されます。救急治療室にすぐ運ばれましたが、翌日の2007年5月27日、坂井泉水は帰らぬ人となってしまうのでした。坂井の死亡報道とがん再発は同時にニュースとなりました。警察も当初は、事故と自殺の両方で調査をしましたが、遺書や変わった様子がなかったことから、事故という処理になったようです。しかしたった3メートルの高さから、1メートル以上の手すりがついたスロープで、足を滑らせるという状況が非常に想像し難いことから、世間では事故とも自殺ともいまだに議論される事件となっています。
まとめ
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坂井泉水のレコーディングにたずさっわた関係者や、スタッフが、口をそろえて、彼女の音楽へのストイックな姿勢は病気になってからも決して変わることはなかったと言います。彼女の死後10年が過ぎても、いまだに彼女の歌声と音楽への想いはたくさんの人の耳に鮮明に残って、生き続けています。