村岡花子は山梨県甲府市生まれの翻訳家であり、児童文学者でもあります。女4人、男4人の兄弟の長女で、クリスチャンの家庭に育ち2歳のときに幼児洗礼を受けました。あまり生家は経済的に豊かではありませんでしたが、小学校時代から短歌に親しむ利発な子供だった花子は、10歳のときに華族や富豪の家庭の子供が通う東京のミッション系の学校である東洋英和女学院に奨学生として編入します。
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本名が「安中はな」であるため、この頃からペンネームとして安中花子を名乗るようになった村岡花子は、アイルランド文学の翻訳家である松村みね子の勧めで童話を書き始めるようになります。学校を卒業した花子は山梨の女学校に英語教師として赴任すると共に童話や小説を数多く執筆し、初めての本「爐邉(ろへん)」を出版しました。
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その後教師を退職し、キリスト教図書出版社で翻訳と編集の仕事をしていましたが、印刷会社に勤めていた村岡敬三と出会い結婚し、長男の道雄が誕生します。しかし、6年後に道雄を病で失った花子は、本格的に英語児童文学の翻訳家への道を歩み始めます。何冊かの翻訳書を出版しながら子供向けラジオ番組でニュースコーナーのアナウンスを担当し「ラジオのおばさん」として親しまれました。
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これは第2次世界大戦勃発まで続き、世界情勢が悪化する中、親交のあったカナダ人宣教師から「アン・オブ・グリーン・ゲイブルズ」の原書を手渡され翻訳を始めます。これが後の「赤毛のアン」で、終戦の頃に翻訳が完了して出版されました。戦後は文部省嘱託や日本ユネスコ協会の副会長として教育改革や福祉事業に長く携わり、日本翻訳家協会副会長を務めた後、1968年に脳血栓により享年75歳でこの世を去りました。
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花子は長男の病死後子宝に恵まれなかったため花子の直系の子孫は存在していませんが、妹の長女を養女としています。その養女の子供で花子の義理に当たるの2名の孫が主宰していた東京都大田区にあった赤毛のアン記念館は、現在花子の母校の東洋英和女学院に「村岡花子文庫展示コーナー」と名前を変えて蔵書や所蔵品の展示をしています。
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村岡花子の名前を世に知らしめたのは「赤毛のアン」ですが、赤毛のアンには続編があり、「アンの青春」や「アンの愛情」、「アンの幸福」など全部で12部あり、アンの11歳から53歳までの人生が記されています。また、テレビドラマの原作にもなった花子の伝記である「アンのゆりかご・村岡花子の生涯」を一読してみると、花子の波乱万丈な生涯の一部を垣間見ることができるでしょう。