一介の草履取りから天下人へ、夢のようなサクセスストーリーの主人公として人気の高い太閤さんこと豊臣秀吉。昔の人物であるため、真偽は定かでないものの彼にまつわる逸話は面白いものばかりです。とても有名なところでは「信長の草履をフトコロで温めた」というエピソードがありますが、それ以外のあまり知られていないエピソードも見ていきましょう。
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ちなみに、「フトコロで温めた」が通説となっていますが名将言行録という書物によると実は「背中に入れて温めた」そうです。最初のエピソードとしては、幼少時の豊臣秀吉は貧乏で体格も貧弱であり、そのとき住んでいた地域で体の大きいガキ大将にさんざんいじめられていました。天下人となってその故郷に帰ってきた秀吉はそのガキ大将を探して処刑しようとしますが、見つかってしまったガキ大将は涙を流して命乞いをしたため、部下があわれと思って秀吉には「ガキ大将はもう死んでいました」と報告し事なきを得ます。
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家康と違い「執念深い」というイメージのない豊臣秀吉ですが、なかなかに恨みが深かったのでしょう。
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次に、豊臣秀吉の身体的特徴について。秀吉が低身長であまり風采があがらず、信長から「サル」と呼ばれていたのは有名な話ですが、実はそれより「はげネズミ」「六つめ」と呼ばれることのほうが多かったと書物からは推測されています。豊臣秀吉は頭部が薄くなるのが早かったようで、肖像画にもみられるようにやせ形で貧相な雰囲気から「ネズミ」を連想させたのか「はげネズミ」というあだ名を信長からもらってしまったようです。
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「六つめ」というあだ名の由来は、実は秀吉には指が六本あったということから来ています。多指症と呼ばれる一種の奇形ですが、いくつかの歴史書に記述があるためほど確かなことだと考えられています。背が低い以外にもこんな特徴があったとは驚きですね。さて、お次は豊臣秀吉の女好きエピソードです。背も低くブ男の秀吉でしたが、とにかく口が達者で「人たらし」と呼ばれるほど他人の心を読み切れる心理学の達人でもあった秀吉はたいそう女にモテたそうです。
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そのため、正妻のねねをめとった後も下女や町娘、後家などの女性にさんざん手を出しねねを悲しませていました。一説には生涯で300人ほどの女性と関係し、それがもとで脳梅毒を患って晩年の奇行が生まれたとか。英雄色を好むといいますが、精力や性欲も人並み外れて強い人間だったのでしょう。
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そんなとき、ねねの我慢を見かねた信長から一通の書状が秀吉に届きます。内容は、「ねねは素晴らしい女性なのにお前はほかの女性と遊び歩き、けしからん!」という叱責の内容がびっしり。これに泡を食った秀吉はねねと信長に謝罪し、しばらく女遊びは途絶えたそうです。秀吉というよりは、冷徹なイメージのある信長の意外なエピソードとも言える一幕です。人の気持ちの機微をよく知り、また人に好かれて天下人になった豊臣秀吉ですが晩年は人が変わったように凶暴なふるまいを繰り返すようになります。
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反対を押し切っての朝鮮出兵や、茶頭として配下にいた千利休を怒って切腹させてもいます。また養子として跡継ぎに指名していた豊臣秀次(秀吉の甥)に対しても、自分の実子(豊臣秀頼)が生まれるととたんに冷たくなり高野山に追放、切腹させた上に一族郎党をすべて殺してしまいました。大きな権力を握ったためか、老齢のためか、あるいは先述の脳梅毒が回ったためかは判然としませんが、晩年の秀吉は明らかにそれまで人が違っていたようです。
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ちなみに豊臣秀吉の辞世の句、「露と落ち露と消えにしわが身かなナニワの事も夢のまた夢」は死の直前ではなくだいぶ前、健康であったときに書かれたものとされています。「ナニワの事」が何を指すかなどはいまだに議論があり、いずれにしても興味の尽きない非凡な人物であったことは確かなことのようです。