外国語、プログラミング、SDGs、金融教育、起業家精神…日本では新しい教育が次々と導入されています。しかし一方で、日本の子供たちの「国語力」の衰退は危機的なレベルにあるといいます。全国の約120人の現役の教員に話を聞いたところ、8割が子供たちの「国語力」の弱さを感じていると回答していました。
小学4年生の教科書に載っている戦争文学に『一つの花』(今西祐行)があります。こういう話です。
先生が子供たちに「なぜ戦争に行く前に、父親は娘にコスモスを渡したのか」と尋ねたところ、「娘が騒いだから罰として与えた」とか「お金儲けのため」といった答えが続出したそうです。
戦争を知らない子供たちが当時の状況を細かく理解するのはたやすいことではありませんし、自由な読み方を否定するつもりはありません。ただそれを差し引いても、前後の文脈や、戦争へ行く父親の立場を考えれば、「騒いだ罰」と捉えるのは適切ではないと思います。
では、なぜ、そう考えられたのでしょう。それは、他者の胸の内を言葉によって想像し、状況を適切に捉える力が弱いためです。常識に基づいた想像力を駆使して行間を読み取る力がないので、プログラミング的な思考で、「ゴミ捨て場に咲く花を渡す=罰」となる。
その先生は、これは単なる誤読ではないと主張されていました。誤読以前に、言葉をベースにした情緒力、想像力、論理的思考からなる国語力が不足しているから起こる解釈なのだ、と。国語力の不足によって行間を補えないということです。
現在の教育現場で深刻化しているのは、子供たちが言葉によって自分の感情に向き合い、想像し、表現し、物事を打開してく力が、複雑化した社会と照らし合わせて不足しているということです。何事も「エグイ」「ヤバイ」「キモイ」で表現する子供がいますね。これらの言葉では自分の感情とも、他者の気持ちとも向き合えませんし、建設的なコミュニケーションも不可能です。
文科省は、「国語力」について語彙をベースにした感じる力、想像する力、考える力、表す力の統合体だとしています。人はその力を駆使することによって、コンピューターとも、他の生き物とも違う、人間らしい営みをします。すなわち、言葉で多くのことを感じ、考え、人とかかわり、道を切り開いていくのが人間なのです。