宝塚歌劇団
あなたは宝塚と聞いて何を思い浮かべるでしょうか?
華やかな舞台、素晴らしい歌唱力・・。芸能界にも宝塚出身の方が多いですよね。今回は、その宝塚出身の芸能人を紹介します。
天海祐希
生年月日: 1967年8月8日 (年齢 50歳)
生まれ: 日本 東京都 東京 東上野
本名:中野 祐里(なかの ゆり)
愛称:ゆりちゃん、ゆり
天海祐希さんの舞台人生のスタートは、中学校時代に入った演劇部の部活動からです。中学2年生のときには、天海祐希さんの担任をしていた宝塚ファンの先生に宝塚歌劇団の入団を勧められ、宝塚音楽学校への入学を志願するようになります。高校生のときには、宝塚音楽学校の入学試験準備のため、バレエスクールにも通い始めました。こうした努力の積み重ねの結果、晴れて宝塚音楽学校に入学し、その後宝塚のトップスターを経て、現在に至っています。
女優としてももちろん素晴らしい天海祐希さんですが、宝塚時代にも天海祐希さんはすごい人との伝説がありました。
①宝塚音楽学校に”主席で”合格!
宝塚音楽学校は、宝塚歌劇団に入団する前に、2年間通う学校のなのですが、「東の東大、西の宝塚」と言われるように、倍率も毎年20倍を超える難関です。そんな宝塚音楽学校に、主席で合格した天海祐希さんは、相当に素晴らしかったのですね!
入学試験で「お母さん、よくぞ産んでくださった」と関係者から絶賛されたそうです。
②入団1年目に新人公演で主演、入団7年目でトップに!
宝塚では、宝塚歌劇団で初舞台を踏んでから7年目までは、新人公演というものに出演します。その新人公演に、入団一年で主役に抜擢された天海祐希さん。また、新人公演も卒豪していないうちにトップスターになったのですね。トップスターは、早くても入団10年目くらいでなる方が多いですが、天海祐希さんは異例の早さだったのですね。
③トップ就任後、わずか2年で退団!
宝塚のトップスターに就任したのち、多くの人は5年くらいは在団していますが、天海祐希さんはわずか2年で退団しています。もちろん、期間が短いトップスターもたまにいますが、やはり天海祐希さんの2年は短いです。
④サヨナラ公演のフィナーレで、羽根を背負わなかった!
宝塚の象徴ともいえる、ラストのフィナーレでトップスターが背負って大階段を降りてくる大きな羽根。天海祐希さんは、退団公演でその羽根を背負わずに降りてきました。どうも天海祐希さんが、仰々しい羽根を背負うのは嫌だと、劇団側に通させてしまったらしいです。
⑤サヨナラ公演で、客席より仲間に手を振っていた!
宝塚の舞台では、フィナーレが終わってから幕が下りるまで、客席に向かって手を振ってくださるのですが、天海祐希さんは客席よりも、一緒に舞台に立った仲間たちに手を振っていたそうです。
黒木瞳
生年月日: 1960年10月5日 (年齢 57歳)
生まれ: 日本 福岡県 八女市 黒木町
黒木瞳さんは1981年に宝塚歌劇団に入団します。初舞台は「宝塚春の踊り」でした。黒木瞳さんは月組に配属されます。1982年に「おはよう朝日です・土曜日です」にてレギュラー出演が決まり、司会にレポーターなどを行いました。宝塚財団中にもかかわらず東宝映画「南十字星」に出演されています。これが映画初出演です。
黒木瞳さんは娘役としては、史上最速となる2年目で月組娘役トップとして就任します。黒木瞳さんが娘役トップになった経緯に大地真央さんが関わっています。
大地真央さんが男役としては細見だったので、自分と似たような体型で度胸がある演技を行っている黒木瞳さんに目が止まり相手役にしたいと申し出たのが、黒木瞳さんが月組娘役でトップになったキッカケとなりました。
大地真央
生年月日: 1956年2月5日 (年齢 62歳)
生まれ: 日本 兵庫県 洲本市
1973年に大地真央さんは、59期生として宝塚音楽学校に入団します。大地真央さんの初舞台は星組公演「花かげろう/ラ・ラ・ファンタシーク」です。1974年に月組に配属されます。この時から新進気鋭男役スターとして注目されたそうです。
大地真央さんは1973年にラジオ番組「MBSヤングタウン」にて司会の桂文枝さんのアシスタント役を務めました。1975年には、アイドルとして「悲しみのアイドル」というレコードを発売しています。宝塚歌劇団の舞台では1976年に開演された「ベルサイユのばらⅢ」の小公子役なとど務めました。
大地真央さんは1980年には、月組の当時トップの榛名由梨(はるなゆり)さんに次ぐ二番手男役となります。1981年には「新源氏物語」にて榛名由梨さんが演じている光源氏役、を数日間演じられました。
大地真央さんが59期生で、黒木瞳さんが67期生ですから黒木瞳さんにとって大地真央さんの言葉は絶対でしょう。こんなエピソードがあります。大地真央さんが、黒木瞳を相手役に選んだのは少し前に書いてますので承知の通りだと思います。大地真央さんのトップお披露目公演「情熱のバルセロナ」のときに、黒木瞳さんは初舞台から2年目だと分かっていたけど、びしびしと厳しく稽古をつけたそうです。黒木瞳さんは、その稽古に必死に食らいついていったそうです。
宝塚の舞台「ガイズ&ドールズ」を演じていた大地真央さんは黒木瞳さんの事を、この人が相手役として最高だと思っていたそうです。黒木瞳さんは大地真央さんの事を、私は嫁にきましたので、どこまでもついて行くと言う感じだったそうです。
大地真央さんが宝塚を引退しようと思ったときに、黒木瞳さんに相談したそうなんです。すると黒木瞳さんも、わたしも一緒にやめても良いですか?と聞き返したそうです。1年生のときから大地真央さんと一緒に演じさせてもらっていたので、他の方と演じることなんて考えられなかったそうです。そして1985年に黒木瞳さんと大地真央さんは、宝塚歌劇団を同事退団されました。
黒木瞳さんは入団2年目で月組娘役スターですので、他の団員や先輩達から嫌みや等もあったのだと思います。黒木瞳さんは、ちょくちょく稽古場でイジメられていたのだそうです。稽古中でもそんな様子を見た大地真央さんは、稽古中に黒木瞳さんだけに徹底的に駄目だしや厳しい言葉や指導を行ったそうなんです。
とても厳しい指導に泣きそうになった事があったらしいのですが、そんな時に大地真央さんから食事に誘われたそうなんです。そこで大地真央さんが黒木瞳さんに、自分が厳しく行っている理由を聞かされたそうなんです。他の誰からも、駄目出しや、嫌みを言わせないようにする為だと聞かされた黒木瞳さんは先輩についていこう。と思ったそうです。
真矢みき
生年月日: 1964年1月31日 (年齢 54歳)
生まれ: 日本 広島県 広島市 西区
宝塚の歴史や掟を変えたとも言われている真矢みきさん。
真矢みきさんは宝塚音楽学校の入学時試験では39人中37位だったそうです。宝塚退団後はインタビューなどで自分自身のことを「劣等生だった」と語っています。宝塚音楽学校に入学できただけでもすごいと思いますけどね!
当時、男役も娘役も、アイシャドウは水色に紫、そして口紅は赤だった宝塚。真矢みきさんは、「男でそれはありえない!」と言い、目元をグレーにし、口紅はベージュ系の落ち着いた色に変えたそうです。
宝塚の常識をブチ破った真矢みきさん。「周りの男役は女子校出身者ばかりで、共学出身の私は間近で見てきた男の子の良さを取り入れようと思った」と語っています。真矢みきさんは宝塚時代からかなりしっかりとした意志を持っていたんでしょうね!
1998年に、真矢みきさんは自らの発案で、つんく♂プロデュースの、宝塚歌劇団初である”真矢みき日本武道館コンサート”を開催。この真矢みきさんのソロコンサートは2日間で3万人を動員し、大成功だったそう。そして宝塚在籍時にコンサートを開く行為は異例中の異例だったそう。さすが宝塚の革命児と呼ばれていた真矢みきさんです!
写真家の篠山紀信さんと真矢みきさんが宝塚時代にコラボを組んだ写真集・Guy。内容は、真矢みきさんが男役・女役の2役をするストーリー仕立ての写真集となってます。
真琴つばさ
生年月日: 1964年11月25日 (年齢 53歳)
生まれ: 日本 東京都
子供の頃に宝塚の演劇を観に行ったことがきっかけで宝塚に興味をもった真琴つばささん。宝塚と実践女子大学を同時に受験し、一度は大学に入学したもののたった一日で退学して宝塚に入学したそうです。
そのため両親には勘当されてしまい、宝塚に所属しているにも関わらず貧乏な生活を送っていたそうです。
最初は1985年に宝塚第1の組と呼ばれる「花組」に所属していたのですが、1993年に「月組」に組替えを行いました。
真琴さんは花組所属の頃も当然人気はあったのですが、同期の愛華みれさんが先に注目されたため、なかなか日の目があたらず思うように活躍できず、歯がゆい思いをしたことから月組への組替えになったと言われています。真琴さんはこの時期を振り返って「暗黒時代」とよんでいるほど、辛い日々の連続だったようです。
ただ結果的には、この組替えはファンにとっても真琴さんにとっても良い選択となり、その後男役としての地位が定着していき、1997年には月組トップスターの座に輝きます。
月組加入当時は真琴さんに対して「なんか野暮ったい」「華が無い」「芝居がへた」などのファンの声が多かったのですが、メキメキと実力をつけ誰しもが認める実力を兼ね備えていきます。トップスターは天性の才能がないとなれないと言われる宝塚の中で真琴さんのように、日々の努力によって、どんどん輝きを増すタイプのタカラジェンヌは珍しかったと思います。
その後、1995年に天海祐希さんが退団し、次にトップスターに就任した久世星佳さんが1997年に退団したことを受け、ついに真琴つばさんがトップスターの座に就任しました。天海祐希さんとは互いを高め合ういいライバル関係だったようですね。
はいだしょうこ
生年月日: 1979年3月25日 (年齢 39歳)
生まれ: 日本 東京都 立川市
はいだしょうこさんは、84期として1998年に宝塚歌劇団に入団しました。
宝塚5つ目の組、宙組の誕生とともにタカラジェンヌとしてデビューしました。当時の芸名は「千琴(ちこと)ひめか」。同期には、元雪組トップスターの音月桂、星組トップスターの北翔海莉ら、そうそうたる面々が揃っています。
はいださんは、歌唱力に秀でていたとされる84期の中において、宝塚音楽学校卒業時に「オペラ部門首席」ならびに「ポピュラー部門最優秀歌唱賞」を受賞したほどの実力の持ち主。母が声楽家、父が音楽家という音楽一家に育ったからこそ、天賦の才能もあったのでしょう。その歌唱力は高く評価され、星組に配属されて以降、歌姫として活躍しました。
特筆すべきは、2001年の『ベルサイユのばら2001』。この公演で、はいださん(千琴ひめか)は入団3年目にして“エトワール”に抜擢されました。舞台のフィナーレを飾る「パレード」で、一番手として歌手を務めるエトワールは、娘役の花形ポジションだ。通常は6年目以上の娘役が担当するなかでの、異例の抜擢でした。
ヒロイン経験はないものの、その後も主要場面の“影ソロ”(ステージに姿は見せずに、ソロパートを歌うこと)として、歌の面から宝塚歌劇の舞台を盛り上げました。
しかし、惜しまれつつ2002年に退団。その胸には、「子どもと一緒に歌う、うたのおねえさんになりたい」という新たな夢が芽生えていました。宝塚を卒業後、難関と言われる『おかあさんといっしょ』うたのおねえさんのオーディションに見事合格。第二の人生を歩み始めました。いまなお、天然のキャラクターで多くの人に愛されるはいだしょうこさん。どのような環境でも輝く笑顔と歌声は、宝塚時代に培われたものだったのです。