いまやテレビに欠かせない 散歩番組。その多くは東京やその近郊の街を訪れてぶらぶら買い物や食事をしたりするので「街ブラ番組」などとも呼ばれ、メインが 有吉弘行、マツコ・デラックス、高田純次など大物やベテラン芸能人のケースも目立ちますが…。
ゴールデンタイムのNHK看板番組
そうした出演者のなかでも 知識に裏付けされた安定感が抜群と言えるのが、やはりタモリでしょう。
NHK『ブラタモリ』は2008(平成20)年にパイロット版がつくられ、2009年にレギュラー化されました。
その後いったん間が空いたりもしましたが、2015年からは毎週土曜の19時台から20時台という、まさにゴールデンタイムの看板番組としてすっかりおなじみになり、毎回楽しみにしている視聴者も少なくないでしょう。
『ブラタモリ』で最大の特徴になっているのは 地図⁉
『ブラタモリ』は回を重ねるにつれて、訪れる街が全国各地、そして海外へと広がっていきましたが、当初は東京の街が中心でした。最初のパイロット版では原宿・表参道、そしてレギュラー初回が早稲田、さらに上野、二子玉川、銀座……という感じで続いていきました。そんな『ブラタモリ』で最大の特徴になっているのが、地図なのです。
その街の古地図や地形図を携えながら、実際にその場所に行き過去と現在を比べるタモリの姿は、芸能人というよりは歴史家か考古学者のような趣があります。地形に対する並々ならぬ関心の持ち主となると相当限られてくる気がしますが、そのマニアックさこそがタモリの真骨頂に違いありません。
2000年に「日本坂道学会」設立し副会長に⁉
もしかするとあまり知られていないかもしれませんが、そんなタモリの地形マニアぶりを『ブラタモリ』よりも早く示したものとして、「日本坂道学会」があります。「学会」と称してはいますが、いうまでもなく本当の学会ではなく一種の知的なお遊びです。
ある日のこと。タモリが銀座のある店で飲んでいると、別席で坂道の魅力について大声でとうとうと語っている人物がいました。かねがね坂道好きを自負していたタモリは、我慢できなくなって声をかけてしまいます。
すると初対面にもかかわらずふたりはたちまち意気投合、2000(平成12)年に「日本坂道学会」を設立します。会長はその人物で、副会長がタモリ。会員はそのふたりのみでした。
坂道についての連載をまとめ「坂道本」も刊行⁉
会長となったその人物が実は講談社の重役だったこともあり、その後タモリは同社の東京情報誌で坂道についての連載を始め、それはやがて一冊の本にまとめられました。それが、『タモリのTOKYO坂道美学入門』(2004年刊行)です。
内容は、「勾配の具合、湾曲のしかた、江戸の風情、名前の由来・由緒」といった独自の鑑賞ポイントをもとに、港区、文京区、目黒区など東京23区のなかの九つの区にある合計37の坂をタモリが訪れ、それぞれの魅力をつづったもの。タモリ自身の撮影による写真が添えられ、また得も言われぬ良い雰囲気を醸し出しています。
坂の名前の由来はもちろん、坂にまつわる歴史、仕事絡みのエピソード、個人的思い出など多彩な切り口で読む者を飽きさせません。
例えば、文京区本郷にある鐙(あぶみ)坂では、台地にまたがるように曲がった様が名前の由来であることを述べた後、付近の菊坂にも足を伸ばして樋口一葉ゆかりの現存の質屋から往時をしのびます。
そうかと思えば、千代田区の紀尾井坂では、その坂下にある料亭で憧れの吉永小百合に初めて会ったとき、緊張のあまり座布団の端のフサフサを全部むしり取ったてしまったことなど、思わずクスッとなるようなエピソード等も紹介されています。
近所の家とそこに住む人びとの地図作りも⁉
この本には、タモリが坂好きになったいきさつも書かれています。
タモリが生まれ育った家は、街中のほうへ向かって下る長い坂の途中にありました。幼稚園に行く年齢になり事前に見学に行ってみた際、皆がお遊戯をしている光景がとても恥ずかしく、バカバカしく思えたタモリは、幼稚園には行きたくないと両親に訴えました。
そして実際、通いませんでした。しかしそうなると、当然時間を持て余してしまいます。
タモリは1945(昭和20)年生まれ。もちろんまだテレビゲームなどもありません。そこで幼き日のタモリは、何をするわけでもなく家の前の石垣にもたれかかって、坂道を行き来する人たちを来る日も来る日もウォッチングすることにしました。そして頭のなかに、近所の家とそこに住む人びとの地図を作って遊んでいたそうです。
タモリの大人びた感性は、その当時からも培われていたのだということがわかって少し感慨深くもあるエピソードですね。