会いに行けるアイドルとして秋葉原に誕生した女性アイドルグループ、AKB48は、瞬く間に男性はもちろん、女性にも多くのファンを作り出していきました。
AKB48とは?
メンバーは複数のチームに分かれて所属し、劇場に行くとその日によって公演を行うチームが異なるという、これまでにない斬新な発想でした。
そのため、推しメンと呼ばれるお気に入りメンバーに会うために、何度も足を運ぶ人が増え、これまでのアイドルを応援するのとは一風異なるブームを生み出しました。
所属するメンバーは数多く、メディアに出られる人数はおのずと限られてきます。
シングルをリリースするたびに、メディアに出られるメンバーをファン投票によって決めるという、総選挙と呼ばれる手法を導入したのも、多くの人の注目を集めました。
誰がメディア選抜に入るのかや、その頂点に立ったメンバー、いわゆる1位になった人がその曲をセンターで歌うことになるなど、今までになかったアイデアをどんどん発表していったのが、AKB48だったのです。
そんなAKB48はメンバーが多いこともあって、それぞれのチームにキャプテンを置きながらも、そのグループを総括する総監督なる役目がありました。
その初代総監督を務めたのが、たかみなこと高橋みなみです。
高橋みなみについて
2005年、『AKB48 オープニングメンバーオーディション』に合格し、発足当初からのメンバーとしてチームAに所属します。
2007年1月、それまでの実質的なリーダーだったメンバーが卒業することになり、リーダーを継承、以来総監督という呼び方をされるようになった高橋みなみは、2008年の12月に、劇場公演出演回数500回を最初に達成したメンバーとなりました。
その後、AKB48の総監督を務めながら、チームAのキャプテンもするなど、リーダーシップ能力においてかなり優れたものを持っていたと思われます。
そんな高橋みなみが体調を崩して入院した際には、たった2日間いなかっただけにも関わらず、チーム全体の雰囲気が緩んでしまい、それに激怒した大島優子が「たかみながいないからって、だらけてるんじゃねえ」と怒鳴りつけたという話は有名です。
もっとも、高橋みなみ自身はどちらかというと自分のことを、人を束ねて引っ張っていくタイプではなく、劣等生であったと感じていたと言いますから、人の持っている才能というのはわからないものです。
不可欠な存在の高橋みなみ
リーダーが抜け、誰が掛け声をかけるかでもめている時に、「たかみな、やってみる?」という一言を掛けられたことによって、「誰もやらないなら自分がやってみようかな」と思ったと言います。
それ以後は、不可欠な存在としてAKBを常に引っ張り、生みの親である秋元康をして、「AKBは高橋みなみである」と言わしめるほど、大きな貢献を果たしてきました。
そんな総監督という重要な立ち位置にいながら、AKB48の中にあってはスベリキャラとして知られており、これは本人も認めています。
とはいえ、自分なりに面白いと思う話を見つけてきては、それを披露するものの、結局はだれにもウケず、スベるということの繰り返しで、週刊AKBのDVDに「みなみ高橋のすべる話」が特典映像として収録されたくらいです。
けれども、実のところはメンバーもファンも、スベるたかみなの様子を楽しんでいたのではないでしょうか。
裏表がない優しい性格は誰からも好かれていて、メンバーの卒業式に立ち会ったり、何かトラブルを起こしたメンバーの元に一番にかけよったりと、人に対して非常に思いやりが深いことでも知られています。
この性格が、トップアイドルを目指す大勢の女子たちを束ねることができた、一番の要因かもしれません。
メンバーの多くが気にする髪の手入れなども特に気にせず、しいて言えばリボンの髪飾りをトレードマークにするくらいで、他のメンバーと張り合わなかったところも、総監督として向いていたのでしょう