去る27日、アメリカンポップスの日本語カバーや「人形の家」などをヒットさせた歌手、弘田三枝子(本名・竹永三枝子)さんが 21日午後10時31分、心不全のため死去したことがわかわりました。73歳でした。
すでに 近親者だけで 密葬を済ませました。14歳でデビューし、ダイナミックな歌声で 人気が爆発。大きな持病はなく、先月まで仕事を続けていたという。まさに突然、昭和の歌姫が 帰らぬ人となってしまいました。
所属事務所によると、弘田さんは今月20日、千葉県内の自宅で突然倒れ、遊びに訪れていた実姉が 119番。同県内の病院に救急搬送され、翌21日夜に容体が急変し、姉に看取られ息を引き取りました。一人娘(41)は 看取ることができなかったという。
コロナ禍のため、26日に親族や関係者ら約10人で密葬。先月15日にYouTubeの「日本歌手協会チャンネル」で配信された「コロナに負けるな リレー歌謡祭第46弾」に電話出演し、「早く皆さんに会いたいです」と話したのが、公の場での最後の肉声となりました。
小学生の頃から米軍キャンプで歌い、山下達郎、桑田佳祐らにも影響を与え…
弘田さんは 小学生の頃から米軍キャンプで歌い、ヘレン・シャピロの「子供ぢゃないの」の日本語カバーでデビュー。「ヴァケーション」「すてきな16才」などアメリカンポップスを日本語で歌い、ヒットを連発しました。
健康優良児的な体形と力強い歌声から「パンチのミコちゃん」「ポップスクイーン」と呼ばれ、週に10本以上レギュラーを持つ国民的人気者に。レナウンのCMソング「ワンサカ娘’64」やアニメ「ジャングル大帝」のテーマ曲「レオのうた」なども話題になりました。
69年には減量に成功し、イメージを覆すアダルトな楽曲「人形の家」が大ヒット。翌70年には 減量経験を生かした著書「ミコのカロリーブック」が150万部を突破し、ダイエットブームの先駆けにもなもりました。
一方、私生活は波乱万丈で、77年に愛人の妻に刺されて 大けがを負ったことも。79年に 米国で出会った日本人一般男性と結婚し、長女をもうけましたが、離婚しました。
故大瀧詠一さんや山下達郎(67)さんら多くのアーティストに影響を与え、特にサザンオールスターズの桑田佳祐(64)さんは 83年発売のアルバム「綺麗」に弘田さんの愛称をタイトルにつけた「MICO」を収録。翌84年には弘田さんがアンサーソングとしてシングル「O-KAY」を発売するなど交流を深めました。
60周年の今年は 記念公演などを企画していたが、コロナ禍のためスタッフと「来年に持ち越しね」と話し合っていたばかりでした。後日、お別れの会を検討しているそうです。
20世紀の昭和と平成に活躍した歌手が、21世紀の令和にこの世を去って…
今回のこの報道にも多くのコメントが寄せられていますが…
《ミコさんは、14歳の時から洋楽カバーを歌っていた。1965年の「若さとリズム」では、「マイフェアレディー」の「踊りあかして」を18歳とは思えない迫力ある歌声で歌っていた。ミコさんは、年を重ねるにつれて、低音でハスキーを利かせた声で、洋楽ジャズの難しいスタンダードナンバーを一流の演奏をバックに、歌うようになった。大物アーティストとの共演も多かった。20世紀の昭和と平成に活躍した歌手が、21世紀の令和にこの世を去ってしまった。ミコさんのご冥福をお祈りします》
《弘田三枝子の歌で思い出深いのはジャングル大帝の歌だな。いろいろあるけど弘田三枝子の歌が一番好きだ。躍動感がずば抜けている》
《弘田三枝子さん亡くなられたのですね。人形の家の頃は最高にいい女でした。歌も最高。ご冥福を祈ります。しかしテレビ等ではニュ-スに出て来ませんでした・・・。あれだけの歌手なのに哀悼の意を言うべきかと》
等など、往年の昭和の歌姫の急逝を惜しむ声が寄せられているようでした。