黒田官兵衛は、彼の親友とされる竹中半兵衛とともに、二兵衛もしくは両兵衛と称されるほどの天才軍師として数多くの小説やドラマに取り上げられていますが、実際は軍師というよりは、交渉術に長けた、今でいう外交官の役割で秀吉に重宝されていたというのが実情と考えられています。
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戦における参謀のような存在は実際あった?!
戦国時代当時「軍師」と呼ばれる役職は無かったということは広く一般にも知られるようになっていますが、戦における参謀のような存在は実際あったものの、黒田官兵衛がその立場には無かったことの証として、秀吉が天下人となるための正念場だった小牧・長久手の戦いに、官兵衛が参加していなかったということが挙げられます。
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その頃の官兵衛は、毛利家と宇喜多家の領土の境目を確定するための難しい交渉に、蜂須賀小六とともにあたっていました。史上有名な水攻めの最中だった備中高松城攻略の陣中で、本能寺の変を知った秀吉が半ば毛利欺く形で和睦を行い、中国大返しで畿内に戻って明智光秀と戦い勝利し、以降天下取りへと大きく飛躍して行ったことはよく知られています。その後、西国で相変わらず絶大な勢力を誇っていた毛利家とは微妙な力関係のまま、秀吉は、織田の子息らと柴田勝家、徳川家康との戦いに忙殺される状態になっていました。その点において黒田官兵衛は、小牧・長久手の戦場には呼ばれなかったものの、大毛利を抑えるという非常に重要なミッションに就いていたと言えます。point 388 | 1
黒田官兵衛は交渉術が得意
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戦場での布陣や軍略などよりも、黒田官兵衛が得意としていたのは交渉術ということは、毛利家の交渉窓口で、やはりその巧みな交渉術によって毛利家の西国での勢力拡大に大きく貢献していた安国寺恵瓊と互角に渡り合い、共に優れた才覚でしのぎを削ることで、領土確定の交渉に一年近く費やしたことからもうかがえます。黒田官兵衛の交渉術の巧みさは、その後の秀吉の四国攻めや九州の陣でもいかんなく発揮され、幾つかの城攻めで、秀吉軍の兵を損ねることなく交渉によって敵将を寝返らせたり、城攻めを行うことなく開城に導いたりしています。戦場で采配を振るうだけが軍師ではないと考えた場合、官兵衛はやはり、戦を勝利に導く立派な軍師だったと言えます。point 383 | 1
黒田官兵衛はキリシタンだった!
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黒田官兵衛が九州の陣で特に交渉を上手く行うことができた理由の一つに、彼がキリシタンだったという点が挙げられます。ザビエルが鹿児島に上陸して以降、九州はいち早くキリスト教が広まった地域でした。その頃官兵衛は秀吉政権の重要人物として宣教師らから頼りにされ、官兵衛も九州のキリシタン大名らにつてがある宣教師らに協力を仰ぎ、持ちつ持たれつの関係だったと言えます。
黒田官兵衛は学問好き
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黒田官兵衛は学問好きでも知られていますが、知的な言葉遊びといった風情もある連歌に傾倒する一面があっただけに、語学にも興味関心があったと言われます。官兵衛の才能の一つにヒアリング能力に長けていた点があったからこそ、方言のきつい地方の大名との交渉もスムーズに行うことができ、宣教師らとも深い交流ができたと考えられます。戦場で槍や刀を振りかざして手柄を挙げるタイプの武将ではなかったことが、逆に、現代人の好み合う人物として歓迎された人物でもあります。point 298 | 1