伝説の昭和のアイドル、岡田有希子さんをご存知でしょうか。岡田有希子さんは、1980年代を代表するアイドルでした。「ポスト松田聖子」としても期待されていましたが、人気絶頂だった1986年に、衝撃的な飛び降り自殺をとげます。
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全国コンサートがスタートして3日後の4月8日のこと、岡田有希子さんは、自宅マンションで手首を切って自殺未遂をしたそうです。同じマンションの住民がガスの臭いに気づき、管理人が警察に通報しました。レスキュー隊が駆けつけたとき、岡田有希子さんは押入れの下段でうずくまって泣いていたそうです。すぐに現場から程近い北青山病院に搬送されて治療を受けた後、芸能事務所に戻った直後の12時15分、事務所が入居しているビルの屋上から飛び降りて自殺してしまうのです。鉛筆書きの遺書が残されていました。
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人気絶頂期にビルから飛び降り自殺という衝撃的な死を遂げた岡田有希子さん。まだ18歳でした。この伝説のアイドルの突然の死は、世間に大きな打撃を与え、この後、「ユッコ・シンドローム」と言われた、多くのファンによる岡田有希子さんの後を追って自殺するという行動が多発しました。岡田有希子さんの後を追って飛び降り自殺した若者は、彼女の死後一週間で8名もいたのです。1か月後には同じビルから飛び降りた若者もいました。岡田有希子さんの後を追った人数は30人にものぼり、大きな社会現象となりました。
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この時、遺体の写真がスポーツ新聞や写真週刊誌に大きく掲載されました。肉片が飛び散り、血が流れ、脳みそが飛び散る写真は、当時世間に大きなショックを与えました。岡田有希子さんの遺体の第一発見者は、彼女を追っていた雑誌記者でした。まさか飛び降り自殺とは思っていなかった雑誌記者は、「袋に入った大きな生ごみが、窓から投下されたもの」と勘違いしており、 「オレンジ色のごみが、飛び出しているぞ」と呑気に口にしていたのですが、後でそれが、「飛び散った脳みそ」だったと気づいて、本当に驚いたと語っています。
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あまりにも衝撃的な事件だったために、当時は様々なうわさが飛び交いました。中でも酷いものは、飛び降り直後に現場にかけつけていた報知新聞社のカメラマンは、まだ警察が到着していないのをいいことに、より良いアングルの写真を手に入れる為、うつぶせに倒れている岡田有希子さんを足でけって転がし、ベストショットの撮影に成功した、というものです。そのカメラマンが翌年事故死をとげている、ということも岡田有希子さんの呪いとして都市伝説となっているようです。
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この衝撃的な現場の写真を、しかもカラーで掲載した当時の写真週刊誌はその後廃刊になっていますが、当時の写真週刊誌は、今と比較すると考えられないほど、あらゆるものが掲載されている時代でした。同じように遺体の写真を掲載して批判を浴びた例としては、1985年に起きた日本航空123便墜落事故があげられます。多くの遺体の写真が掲載され、写真週刊誌の売り上げは一気に伸びることになりました。この時は、カメラマンが遺族の名を騙って遺体安置所に潜り込む事件が発生しており、遺族や生存者の気持ちを踏みにじった、と大きく批判されることにもなりました。
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岡田有希子さんの遺体の写真掲載についても、当然ながらファンからは、故人への冒涜だと大きな非難を受けました。現在では、多くの写真週刊誌が争うようにして様々な衝撃的な写真を掲載していた1980年代の業界全盛期と比べれば、このような悲惨な写真は見られなくなっています。写真週刊誌やマスコミの倫理観やプライバシーい関する意識が少しでも高くなることを願いたいものですね。
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岡田有希子さんは1984年、「スター誕生!」という日本テレビの視聴者参加型の歌手オーディション番組で世の中に顔を知らせることになり、それを切っ掛けにシングル「ファースト・デイト」で歌手デビューし彼女の人気はまるで果てのない空のように続けると思いました。
岡田有希子さんはデビュー後、1985年テレビドラマ「禁じられたマリコ」より初主演まで掴み取ることができ、1986年に発売されたシングル「くちびるNetwork」はオリコンチャート初登場1位をとりました。いつも挨拶のあとに「いつまでも一緒にいてね」と笑顔で言ってくれました。
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このように人気絶頂であった岡田有希子さんの突然の自殺。死因は投身による強度の全身打撲死。当時の岡田有希子さんの年齢は18歳。彼女はなぜ死を選んだでしょうか。
世間に「ユッコ・シンドローム」と言われるまで彼女の死にはみんなに大衝撃であったのですが、その後、自宅から岡田有希子さんの自筆に推定される遺書が発見されました。その内容としては「峰岸さんにふられた」、「もう一度お会いしたかった… 勝手なことをしてごめんなさい」など…彼女なりの緊迫な感情が感じられる文章でした。
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一方、岡田有希子さんは事務所のビルから飛び出し、自殺の直前まで事務支所の人と一緒でしたが、その一人がサンミュージックの元専務の福田さん。福田さんは、「彼女の死には2つの理由がある」と語りました。「岡田のガス自殺未遂は関係を噂された男性への一途な思いが遂げられない葛藤に悩んだ末の行動、2時間後の投身自殺は自殺未遂によって周辺に迷惑をかけた過ちへの自責の念ではないか」と語っています。
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1984年に16歳でデビューし、人気絶頂期の1986年に自分で死を選んでしまった岡田有希子さん。しかしファンたちは彼女の存在を忘れられません。
去年は彼女の生誕50年(2017年8月22日)に記念に多くのファンが集まる機会がありました。去年の7月29日には名古屋、翌日の30日には東京都内で岡田有希子さんのファンが集まった「ファンミーティング」が行なわれました。会場には抽選で招待されたファンが全国から合計約200人も訪問しました。 未発表音源が流れている会場内にはアイドル誌「月刊平凡」の未公開カットのポスターや直筆の詩などのレアな資料が展示され、会場内は岡田有希子さんを懐かしむ人々でいっぱいでした。多くの観客の皆は岡田有希子さんに関するそれぞれの思い出があるでしょうね。
岡田有希子さんのキャッチフレーズ「いつまでも、一緒にいてね。」のように彼女は多くの人々の心の中でいつまでも一緒にいてくれると思います。