酒鬼薔薇聖斗とは、1997年におきた神戸連続児童殺傷事件の犯人であった、当時14歳の少年Aが犯行声明で名乗った名前です。
その事件とは…?
その年の5月27日、早朝。
神戸の須磨区にある中学校の正門に男児の頭部が放置されているのが発見されました。
耳まで切り下がれた男児の口には「酒鬼薔薇聖斗」の文字が見える様に犯行声明文が挟まれていました。
「さぁゲームのはじまりです」という文句で始まるこの犯行声明文は、一部を修正してマスコミに公表されることになります。
直ぐに事件が広く報道され、警察も大規模な捜査を開始するのですが、当初は警察は「酒鬼薔薇聖斗」を「酒」「鬼」「薔薇」…………と解釈し、何を意味するのか不明という形で発表し、マスコミもそれに追従する形でした。
その後、ジャーナリストから人名説が出て、犯人名として「酒鬼薔薇聖斗」が定着することになります。
そしてマスコミの報道が過熱していく中、少年Aは、神戸新聞社あてに第二の犯行声明を出します。
「神戸新聞社へ」という形で、便せんに赤字の書体で書かれた手紙は、本当の犯人であることを示す為に、最初の犯行声明文とどういつのものが添えられており、この画像はマスコミから一般に公開されました。
事件発覚から約一ヶ月後
そして事件発覚から約一ヶ月後の6月28日、警察は少年Aに任意同行を求め、少年Aは犯行を自供することになります。
殺害現場となった通称「タンク山」は、当時あったケーブルテレビの施設は撤去されて、現在では地元の教会が事件の慰霊碑を建立し、自然を学ぶ場として環境整備が行われています。
この少年Aがおこした事件は、同年2月10日に小学生の女児2人をハンマーで殴り一人に銃床を追わせた第一の事件、同年3月16日に小学生の女児をげんのうで殴り脳挫傷で死亡させ、さらに別の女児を小刀で刺し怪我を負わした第二の事件、そして同年5月24日に発生した男児殺害、死体損壊事件へと続くのですが、これだけ陰惨な事件を起こしても、少年は犯行当時中学生であったため、少年法で「審判に付された少年犯の氏名、年齢、住所、容貌などが明らかとなる記事や写真を、新聞および出版物に掲載してはならな」とされる形でした。
しかし新潮社が「審判に付される」前の段階で、少年Aの顔写真を掲載した雑誌を出版しました。
大手の販売業者はとりあつかいの自粛を決定したのですが、新潮社は雑誌を回収扱いにはせずに、販売を強行し一部の書店で販売さることになります。
そして翌日には目隠し入りの顔写真が入ったものを発売しました。
法務省はどちらにも勧告したのですが、双方ともこれを拒否します。
この画像はネット上でも公開され、一般の人が酒鬼薔薇の画像を目にする最初の機会となります。
少年Aの行動
少年Aは、家庭裁判所の審判を受け、医療少年院に移された後に少年院と移り、2005年に退院が許可されています。
少年Aは元少年Aとなり、何度が写真週刊誌等にその姿が報じられて、大人となった少年Aの画像は複数確認することができます。
そして2015年6月には元少年Aは、事件について記した手記を刊行しました。
このことで事件は再び脚光を浴びることになり、元少年Aへの現在の生活に関心が集まったり、少年院などでの更生のあり方や、少年法の是非などが再び議論されるきっかけになりました。
その年の秋頃から元少年Aは、自身の公式ホームページを開設したり有料のメルマガの発行を行おうとしたのですが、有料メルマガは直ぐに凍結され、ホームページも直ぐに閉鎖される結果になっています。
こうしたホームページ開設などの一連の流れは、画像などを含めてニュースサイトなどで取り上げられたりしていますが、好意的に受け止めた所は、あまり無かったようです