「お国のために一生懸命お務めしてほしい」
1993年6月9日、小和田雅子さんの自宅前には、400人以上の報道陣が並んでいたといいます。
午前6時18分、皇太子使いの山下和夫東宮侍従長と高木みどり東宮女官長が到着した時、雅子さんの母親である、優美子さんは「お体に気をつけて、お国のために一生懸命お務めしてほしい」と言葉をかけたそうです。
当時、雅子様は29歳でした。
この日、雅子さんの本籍地・新潟県村上市役所で、小和田家の戸籍から、雅子さんは除籍されました。
1週間後の6月16日、皇族の戸籍にあたる「第百弐拾五代天皇に属する皇族譜」に登録され、徳仁親王妃雅子という欄に、両親の名、誕生日の年月日時、命名の日時などが記されました。
こうして雅子様は、姓のない存在になったのです。
日本の皇族は身分や生活は保障されても、特権はほとんど持たない義務ばかりの存在です。
参政権を持たず、世襲制で職業選択の自由はないですが、自由に皇室を離脱できるわけでもない。国民は、憲法で基本的人権や職業選択、婚姻などの自由が保障されています。しかし、皇族にはそのような基本権は事実上ほぼないのです。模範から外れた行動をとれば、『税金で暮らしているのに』とバッシングを受けます。
雅子様は、外交官の家で育ち、ハーバード大学を卒業後、東大に学士入学して40倍という難関の外交官試験を合格し、外務省に入りました。皇太子妃となるということが基本的人権を奪われることだと頭では理解していても、当時、実感はなかっただろうと予想されます。
宮内庁や天皇皇后からの、「世継ぎを早く生んでほしい」という強いプレッシャーや、その後の苦しい不妊治療を経て、ようやく愛子さんを授かったにも関わらず、周囲からは祝福を受けなかったことなどが、雅子様を精神的に追い詰め、「適応障害」へと追いやりました。
思うように公務がこなせないことを、宮内庁関係者は週刊誌などにリークして世論を誘導し、「雅子妃は皇后になるべきではない」などのバッシングを続け、当時の皇太子にまで、「天皇になることを辞退せよ」とまで言わせました。
令和が始まって約8カ月。雅子様の快復途上の体調を不安視する声もありましたが、雅子さまは即位にまつわる一連の行事すべてに出席。式典や地方訪問など過酷なスケジュールをこなされました。
そのせいか、いくつかのメディアで報じられたように、神武天皇の陵墓を参拝した11月27日、雅子様に“異変”が起きたといいます。
玉串を持ったまま左右にふらつき、幸い倒れることはなかったのですが、見守っていた関係者達は息をのんだといいます。
「お近くで拝見するとお疲れがたまっていらっしゃるのが窺えます」
「御即位1年目のハードスケジュールがたたって一気にご体調が崩れはしまいかと、案じられるところです」
宮内庁関係者が、週刊新潮(12月19日号)「『雅子皇后』お誕生日『ご感想』に隠された異変」という特集でこのように発言しています。
過去に、雅子様に対する批判で適応障害を発症されたことはこの関係者も十分知っているはず。それにも関わらず、宮内庁は同じ過ちを犯そうとしているように見えます。
どん底ともいえる状態から、自ら立ち上がり、国母としての務めを果たそうと決意しているに違いない雅子様を、気長に温かく見守ることが、宮内庁やメディア、国民に求められています。