「当時を振り返ると、まるでジェット機に乗っていたような感じだったね」
’73年に発売した『個人授業』が100万枚を超える大ヒットとなり、一世を風靡したきょうだいグループ・フィンガー5。そのハイトーンボイスでメインボーカルを務めていたのが、四男の晃さん。彼の音楽ルーツは日本返還前だった地元・沖縄での活動だったというのですが…。
「父親が米軍基地に勤めるアメリカ人向けのAサイン(米軍公認)バーをやっていたこともあり、アメリカの音楽が身近だったんです。それで上の3人の兄貴が そのバーでバンド演奏をするようになって、“そんなに上手なら 東京に行ってみたら? ”というアドバイスを真に受けて、家族で上京することにしたんです」
当時、沖縄から県外に出るときはパスポートが必要な時代。活動を行うための就労ビザが下りるまで1年ほどかかったという。
沖縄出身歌手の先駆者的存在だった仲宗根美樹さんの紹介もあり、『ベイビー・ブラザーズ』名義で同じレコード会社からレコードを発売できることに。そして噂を聞きつけた音楽プロデューサーの目に留まり、バンド名を変え、フィンガー5として再デビューすることに…。
「最初はバンド形式だったけど、ダンスを入れたほうがいいと半年かけてレッスン。それで阿久悠先生たちを前に披露したところ気に入ってもらえて、『個人授業』をリリースすることに」
再デビューが決まったものの、当時あった音楽番組のオーディションでは落選する日々が続いたという。
「ようやく決まったNHKの番組に出たら、電話がパンクするぐらい反響があったみたい。それで今度はNHKラジオの番組に出たんだけど、リハーサルで布施明さんがかけていた大きなサングラスがカッコよく見えて。それで本番までの間にデパートに買いに行って、本番でかけたんだ。ラジオだからリスナーには見えないんだけど(笑)。そしたらプロデューサーが気に入って、そこから俺のトレードマークになったんだよね」
そのように小学生がサングラスをかけるというギャップや、晃さんのハイトーンボイスやなどが受け、一気に大ブレイクを果たすことになったフィンガー5。
「通っていた小学校の先生が理解があって、先生公認で授業中は寝ていたね(笑)。小学生なのに深夜まで働くのも日常茶飯事。雑誌の取材なんかを入れると、1日に30本ぐらい仕事をこなす日も…」
当時の国会で問題視されるほどの あまりの多忙ぶりに、児童福祉法が厳しくなったという。
誘拐未遂、ホルモン注射、ピンハネ⁉ 紆余曲折を経て…”心をこめないと心を動かせない”
「もともときょうだいの中でいちばん身体が弱かったこともあり、日ごろから点滴を打って活動していたし、何度も病院に運ばれた。それで『紅白歌合戦』にも出られなくなったんだ。でもマネージャーに“こんなに楽しみにしている人たちがいるのに、休んだら悲しむよ”と言われちゃうと、なぜか本番は元気にこなせるんだよね(笑)。主演映画を 3日半で撮り終えるとか、とにかくめちゃくちゃなスケジュールだったね」
7枚目のシングル『華麗なうわさ』を出すころには変声期を迎え、こんな事件も…。
「声変わりをさせたくないマネージャーが、親の許可なく女性ホルモンの注射を打たせようとしたんだ。でも女性ホルモンを打つと、男性器などの成長も止まるらしい…と噂で聞いていたから、マセガキだった俺が断固拒否して難を逃れたのよ(笑)」
今ほど テレビ局のセキュリティーも厳しくなかったこともあり、“誘拐未遂事件”も。
「フィンガー5の関係者と名乗ってテレビ局に入ってきた女性に無理やり連れだされそうになったことも…。そんな死ぬ気で働いて当時の月給は50万円ほど。俺らが物販を始めたタレントの先駆けなんだけど、サングラスや文房具、ぬり絵なんかも出して億単位で稼いでいただろうに、事務所はどんだけピンハネしていたんだって感じだよね 」
人気絶頂だった’75年、そんな芸能活動に疲れ果てたこともあり、日本での活動を休止しアメリカに渡ることに…。
「中学1年生で 体重が30キロ台しかなく、あばら骨が見えるほどガリガリにやせ細っていたし、あのまま活動を続けていたら本当に死んでいたと思う。でも当時の芸能界は入れ替わりが激しかったから、半年ほど日本から離れただけで人気がなくなって、芸能界から離れることにしたんだ」
最初に勤めた電器店の営業では、飛込セールスの訪問先でフィンガー5時代の曲を歌ったりと、知名度を利用してトップセールスマンに…。その後は兄のスナックを手伝ったり、不動産会社で設計の仕事を経験するも、勤務先の不動産会社が経営悪化したこともあり、好きだった音楽活動を再開させることになったという。
「まずはお金をいただいてお客さんの前で歌えればいい…と、知人のスナックや飲食店で歌わせてもらう日々が続いたね。また音楽だけで食えるようになるまでには、5年以上はかかったかな」
紆余曲折を経たが、今は客前で歌えることが何より幸せだと笑顔で語る 晃さん。新型コロナの影響で昨年から活動がほとんどできない状況でも、ダイレクトにお客さんの反応が見えるライブは 1度やったら病みつきになるという。新型コロナが収束後に、ソロでの全国ツアーが目標に…。
殺人的なスケジュールをこなしていた先輩として、後輩らには ”大切なのは何でも話せる友達をつくること。心のケアができないといい歌も歌えないし、演技もできない。やっぱり心がこもっていないとお客さんの心を動かすことはできないから…” とも語る晃さん。
最期に 一緒に活動してきたきょうだいたちへの感謝の気持ちをこう述べました。
「本番直前まで殴り合いのケンカをすることも日常茶飯事だったけど(笑)。でも5人で活動していたから、“ひとりじゃない”という安心感であの多忙な時期も乗り越えることができた。やっぱり信頼できる仲間って大切だよね」
「日本のジャクソン5」と呼ばれ⁉ 直輸入のポップカルチャーに感化され完成されてた…
今回のこの報道にも多くのコメントがよせらているようですが…
《ブラックエピソードが強烈過ぎるぞ。すごい時代だ… 》
《フィンガー5懐かしい。youtubeで、恋のアメリカンフットボールを聴いています!令和に聴いても新鮮だしテンションアップします》
《あれだけ売れたのにあまり映像が残っていないですね。晃の声変わりと一緒に人気が低迷期に入って行ったけど兄弟みんなでアメリカ留学とかもできて楽しかったでしょう、途中から晃の代わりにボーカルを担当したみのる君は今何をしているのだろう 》
《晃さんは、今でもご活躍されてます!歌唱力も、色気も衰えず、ギターテクニックも素晴らしく、愛に溢れる素敵なオリジナルソングを聴かせて頂いております。本当に素敵な方ですよ!》
《晃と妙子の小学生が人気を牽引していた。あのハイト―ンが良かったので声変わりを止めたかったマネージャーの気持ちは理解するが人としては駄目。個人授業のジャケットは水島新司のイラストだった 》
《アキラくんマジ歌上手でジャクソンファイヴ初期のマイケルを彷彿とさせ高音でしたね。考えてみれば当時の沖縄はアメリカに属してたのだから直輸入のポップカルチャーに感化され完成されてたのも腑に落ちます 》
《大好きだった。当時は、晃と同じ格好、サングラスを父にねだって買ってもらいました。もちろん髪型も一緒だった。懐かしいけど、今きいてもやっぱり大好き》
《同じ世代です。私が6年生の頃にフィンガー5がデビューして、それは衝撃的でした。サングラスの男の子が凄いキーで歌い、兄妹5人のグループで「日本のジャクソン5」て呼ばれてました。当時は歌番組全盛でテレビで見ない日、いいや見ない時間ないと言ってもいい位でした》