芸能界のおしどり夫婦
野村克也さんと妻の沙知代さと言えばおしどり夫婦として有名ですよね。
2017(平成29)年12月8日、「サッチー」の愛称で親しまれていた沙知代さんが虚血性心不全のため亡くなりました。辛口発言で数多くのテレビ番組に出演し、96年には衆院選に出たものの落選。02年には脱税で有罪判決を受けたこともありました。まさに、波乱万丈の85年の生涯に幕を閉じたのでした。
野村克也プロフィール
愛称:ノムさん
出身地:京都府竹野郡網野町(現京丹後市)
生年月日:1935年6月29日
野村克也さんは元プロ野球選手で、現役引退後は監督として数々のチームを率い、現在は野球評論家などとして活動しています。
野村沙知代のプロフィール
愛称:サッチー
出身地:福島県西白河郡西郷村
生年月日:1932年3月26日
野村沙知代さんは野村克也さんの妻で、自身のタレントの活動の他、さまざまな騒動で知名度が上がりました。
二人の出会いは・・・?
野村克也さんは、野村沙知代さんと出会う前に正子さんという女性と結婚し1児をもうけましたが1978年に離婚しました。正子さんは、周囲からの評判がよく品も良い旦那を立てる古風なタイプの女性だったそうです。1973年に沙知代さんとの間に息子(野村克則)が生まれていますので、離婚成立前からの不倫関係でした。ただ1968年頃からすでに夫婦関係は破綻し別居状態であったことや、なかなか正子夫人が離婚に応じなかったという話もあります。
また、野村沙知代さんは1957年に東欧ユダヤ系アメリカ人・アルヴィン・エンゲルさんと結婚し、子供を二人もうけました。(野村沙知代さんは幾つかの経歴詐称が言われていますが、本人はこの頃にアメリカの大学に行き通訳者となったと話す一方、実弟の暴露本ではアメリカ人兵士を相手に生計を立てていたとも)そして1970年に野村克也さんと出会い、不倫関係になりました。その後に前夫と離婚が成立していますが、1978年になるまで野村克也さんが別れられなかったため、それまでは愛人として付き添う形に…。なお、その後に前夫はハワイで自殺しているそうです。
野村克也さんは1970年に遠征できていた都内の中華料理店で、相席した野村沙知代さんと初めて出会いました。当時のことを野村夫妻はこう語っています。
夫人 あなたと出会ったのは70年(昭和45年)だけど、当時私は野球をまったく知らなかったから、最初「この人、何者だろう……」と思ったの。「お仕事は何をなさっているの?」と聞いたら、「雨が降ったら商売になりませんわ」と言うから、「ああ、工事現場の監督なのか……」と。ジバンシィのシャツを着ているから最近はあの業界も景気がいいのね、と思ったわ。
監督 出会ったときは精神的にまいっていた時期でね。別れた前の女房とは話し合いの最中で、離婚届に絶対サインしないと言われて……。
夫人 奥さんとは別居していましたからね。
監督 だから帰る家もなくて、知り合いの家で寝泊まりしていた。離婚調停のまっただなかで、精神的に非常に弱っていたときに会ったから「世の中には、えらい活発な女性がいるもんやな」と思ったね。それと、名刺を見てびっくりしたよ。肩書に「取締役社長」と書いてあって。「どういう会社です?」と聞いたら、ボウリング関係の会社だ、と。当時はボウリングが大ブーム。すごい女性だなと思ったけど、ワクワクもドキドキもしなかったな。
夫人 あら、そうなの?
監督 若いコだったらワクワク、ドキドキしただろうけどもうおばさんだったからね。
夫人 失礼ねぇ。あのときは、まだ37~38(歳)よ。ADVERTISEMENT
上記は夫婦揃ってのインタビューのせいかあまり惚気た感じがありませんが、それをきっかけに二人は接近し、1973年には息子(野村克則)さんが誕生するなどし不倫関係になりました。当時の二人の密接な仲・信頼関係は、有名な話ではありますが、1977年に野村克也さんが南海から退団するに至る経緯にもよく現れています。名選手・名監督であった野村克也さんの影には、いろいろとありながらも、妻である野村沙知代さんが常にいたようですね。
パートナー・オブ・ザ・イヤー受賞
2010年にパートナー・オブ・ザ・イヤー受賞しました。夫婦としても個人でみても波乱万丈な野村夫妻ですが、おしどり夫婦としても有名でした。お互いを思いやっているのが伝わってきますよね!
ヤクルト監督時代、92、93年と連覇し、沙知代さんのマスコミ露出度も極端に増えました。また、数々の発言で敵も作ってしまいました。当時の野村氏はこうも話しています。「あいつも寂しい女でな。誤解されるタイプでなあ」。
ちなみに野村沙知代さんにとって野村克也さんの魅力は「よく働くところ」だったそうです。
克也氏が「僕のどの辺にひかれているわけ?」と聞くと、沙知代さんは「何もひかれてないわよ」と跳ねのける。だがその後で「健康で、よく働いてくれるところね。一家の主は健康で、よく働いてくれる――これが奥さんにとっては最高のプレゼントだから」とも答える優しさもあった。
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「サッチー騒動」
1999年3月31日。沙知代さんに剣劇を教え、舞台で共演した浅香光代さんが、「あんな人はもう嫌だ!引っ叩いてやりたい」とラジオで話したことから2人の対立に火が付きました。こうして、当時70歳を過ぎた女性2人の、週刊誌やマスコミを巻き込んだ壮絶極まる罵倒バトルが始まります。
1996年の衆議院総選挙で次点だった沙知代さんが繰り上げ当選になる可能性が高まると、バトルにはさらに拍車がかかることに。浅香光代さんは「挨拶もろくにできないくせに何が代議士だ!税金の無駄遣い」と、沙知代さんを痛烈に批判しました。
脱税で逮捕!?
5億6800万円の所得を隠していたとして、2001年12月沙知代さんは逮捕されます。法人税、所得税で合計 約2億1300万円を脱税していました。
当時、阪神タイガースの監督だった野村克也さんは続投するが決まったタイミングで監督辞任を余儀なくされました。起訴事実は全面的に認め懲役2年(執行猶予4年)で罰金2100万円の判決が下されています。この逮捕がきっかけとなりミッチー・サッチー騒動は浅香光代さんが勝利で終止符を打ちます。
2017年12月8日、虚血性心不全のため死亡
2017年12月8日、虚血性心不全のため沙知代さんはお亡くなりになりました。85歳でした。
克也さんは、亡くなる直前まで沙知代さんと普通に生活していましたので、倒れる直前の様子を語っています。
「昼頃からもの言わなくなって、問いかけても返事もしなくなったんで…」
「(原因は)わからないです。お医者さんに預けていますが、まだ聞いていないです。我々からすれば突然死ってやつですよ。びっくりしました」
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その後、沙知代さんの所属事務所が死因は”虚血性心不全”であることを発表しました。
虚血性心不全とは心臓周辺を通る血管(冠動脈)が動脈硬化や閉塞などを起こし、血液が心筋に行かなくなって引き起こされるものです。2016年に亡くなったタレント・前田健さんの死因もこの”虚血性心不全”でしたが、正しい生活習慣からの予防が大切とされています。高血圧や糖尿病などが虚血性心疾患の危険因子として挙げられることがありますが、老化によって血管が硬くなり動脈硬化が引き起こされることも。
「うちの宝です」
沙知代さんの「お別れの会」が1月25日、都内のホテルで行われ、克也さんは涙を流して別れを惜しみました。球界関係者や芸能界、政財界などから約1000人が集まり「俺が死んだらこれだけの人集まるのかな。サッチーがこんなに人気があるとは思わなかった。うちの宝です。窮地に立った時、常に前向きで『大丈夫よ』と。この一言でだいぶ助かりました」。そう言うと、こらえ切れずに涙があふれ出ました。
祭壇には約10年前に撮った笑顔の写真に、お気に入りの色彩豊かな衣装10点、アジサイ、バラ、カーネーションなど9500本の花が並んでいました。「お別れの会」の最後には、克也さんがマイクを持ってあいさつがありました。
「去年ぐらいに、半分冗談、本気半分で俺より先に逝くなよと言っていたんですが、先に逝かれてしまいました。(死去した日は)食堂のテーブルに頭をつけて動かないんですね。背中をたたいて『おい大丈夫か』って言ったら、たったひと言『大丈夫よ』って強気の言葉が返ってきて。それが最期になりました」。
沙知代さんにかける言葉を問われると「ひと言、ありがとうしかない」と声を絞り出しました。「地球は自分中心に回ってるような人生。これから先、どうして生きていけばいいんだろうっていうのが今の正直な気持ち。本当に大事な奥さんでした」。最後まで感謝の言葉を繰り返しながら、1人になった悲しさをにじませました。
まとめ
克也さんの涙を見ると心が痛いです・・。
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