大河ドラマに限らず、なるべく史実に沿った描き方をしていてもドラマである限り、視聴者を楽しませるための脚色が必要になります。特に歴史上の人物を主人公として扱う場合、できるだけ悪い面は伏せておくか、描写せざるを得ない場合でも、視聴者に嫌悪感を抱かれない程度の脚色が必要となります。
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軍師という立場:黒田官兵衛
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戦国武将の場合、後世まで家名を残すような「勝ち組」ほど、戦で多くの人命を奪って手柄としていたり、謀略と称してだまし討ちにしていたりするだけに、現代感覚でもその辺りが極端に悪く見えないように描くところに脚本家の力量があらわれたりします。黒田官兵衛の場合、軍師という立場上、謀略が仕事ということで、敵の裏をかいたり自滅を誘うような謀略を仕掛けたりといった面を、主人公として悪く見えないよう、いかに清々しく描写するかで脚本・演出ともに苦労があったことと推察されます。point 230 | 1
有岡城幽閉の後遺症
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官兵衛の場合、軍師という頭脳派武将である上、有岡城幽閉の後遺症で足が不自由だったことから本人が戦場で敵を殺傷するというシーンが少なかったことは、ある意味幸いと言えます。実際、官兵衛を悩ませた幽閉の後遺症は足だけに留まらず、以後頻繁に静養が必要なほど体力を落としていたと伝わります。嫡男である黒田長政に早めに家督を譲ったのも、官兵衛の才能に警戒心を抱いていた秀吉の手前というより、当主を続けるには体力的に不安があったからと言われています。point 293 | 1
秀吉の重臣として厚遇された
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官兵衛が軍師としての才能を買われ、秀吉の重臣として厚遇されたというのも、実際はドラマで描写された側近というほどの重用ではなく、後世、息子の長政が家譜をまとめさせた折、父親の業績を「盛った」ために、その内容が近代の小説家らに格好のネタとして取り上げられ、ドラマ内容にも反映されたといった経緯があります。その点では官兵衛の親友とされる竹中半兵衛の業績も、嫡男・竹中重門がやはり父親の才能を過大描写して家伝をまとめたために天才軍師と言われるようになったと言われています。半兵衛が官兵衛の有岡幽閉時に、当時は松寿丸だった長政を自分の領内に匿ったというのは事実ですが、官兵衛と半兵衛が親友であったとするのは、かなり創作が入っているとも言われています。point 399 | 1
「信用できる人物」の交渉術
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実際、官兵衛が長けていたのは謀略と言うより交渉術で、その交渉が上手く行った根幹には、有岡で幽閉されても織田を裏切らなかったという点で「信用できる人物」として諸国に名前が知られていたという点が重宝されたからとも言われます。秀吉政権になって以降も、外交官として重用されつつも、政権中枢ではさほど深く用いられていなかった気配もうかがえます。才覚に長けていたのは事実という辺りで、官兵衛のさらなる出世の足を引っ張っていたのは、彼が敬虔なキリシタンであり続けたという事実と言われます。ドラマでは、いったん入信したものの、バテレン追放令以降、キリシタンだった面はほとんど描かれていませんでしたが、禁教で表向き宣教師らと距離を置いた期間はあったものの、晩年になるほど彼の信仰心は深みを増し、同じく熱心なキリシタンだった弟の黒田直之に夢を託して、秋月にキリシタンの理想郷を築こうとしていた気配もあります。point 475 | 1
官兵衛の死後
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官兵衛の死後、彼はいったんキリスト教式の葬儀によって埋葬されましたが、徳川幕府の禁教令が厳しさを増す過程で、同じくキリシタンだったものの、関ヶ原の戦いからほどなくして棄教していた長政によってキリシタンとしての墓は掘り起こされて仏式で改葬され、現在残る墓所へと移されたと言います。彼の深い信仰ぶりについては、ドラマでは描きにくい面もあってか、かなり省略されたと推察されます。