阪神淡路大震災
阪神・淡路大震災から、23年が経ちました。
当時、被災した人たちの高齢化が進む中で、これまで続けてきた支援をどう転換していくのか、また震災の教訓を次の世代に伝え、新たな災害への備えにどう結びつけていくのかが課題となっています。
しかし当時被害を受けた方々やご家族やご友人など大切な人を失った方々は、どれだけの時間が経ってもその悲しみは癒えないでしょう。
阪神淡路大震災とは?
阪神・淡路大震災とは、1995年(平成7年)1月17日に発生した兵庫県南部地震による大規模地震災害です。
1995年(平成7年)1月17日5時46分52秒、淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の兵庫県南部地震が発生しました。
近畿圏の広域(兵庫県を中心に、大阪府、京都府も)が大きな被害を受けています。
戦後に発生した地震災害としては、東日本大震災に次ぐ被害規模であり、戦後に発生した自然災害では、犠牲者の数で伊勢湾台風の5,098人を上回り、東日本大震災が発生するまでは最悪のものでした。
どうしてこんなにも被害が出てしまったのか?
死者 : 6,434名、行方不明者 : 3名、負傷者 : 43,792名の被害が出た阪神淡路大震災。
多くの建物が倒壊し、住宅が密集する長田区では大規模な火災が起きました。
亡くなった方の8割は、倒壊した建物の下敷きになったことでした。
そして、倒壊した建物の多くは、現在の耐震規定を満たしていない既存不適格建物だったことが被害を大きくした原因でした。
神戸には過去、震度6を超える地震が起きたとの記録がなく、安全神話が広がっていました。
阪神地区、中でも「神戸は地震がないところだ」という認識が住民の方々にあったのです。
神戸は戦争中米軍の空爆で被災したため、戦後すぐに建てられた、普請のしっかりしていない建物ばかりでした。
また、豪奢な建物も、地震に対して脆弱な「木舞」や「葺き土」という建築技法を採用したものが多かったのです。
「神戸には地震がない」という妄信が、備えに目を向けさせなかったのでした。
また、家屋が密集する地域では、火災の炎が次々と拡大していきました。
火災による死者は、400人以上とも、500人以上とも言われています。
なぜ消火活動が遅れたのでしょうか?それは交通機能は麻痺し、消防車は火災現場まで辿り着けなかったからです。
しかし!もし、辿り着けたとしても、水が確保出来ず、満足な、消火活動が出来なかった状態だったそうです。
大切な人を失った遺族
17日午前5時46分、雨が降りしきるなか、発生から23年を迎えました。
大切な人たちを失った遺族らは、各地の追悼の場や自宅で、手を合わせてそっと目を閉じ、それぞれの思いを伝えました。
このうち神戸市中央区の公園「東遊園地」では、およそ7000本の竹の灯ろうに明かりがともる中、遺族や当時被災した人たちなどが黙とうし、犠牲者に祈りををささげました。
このあと、敷地内の慰霊碑の前では、神戸市が主催する追悼のつどいが開かれ、神戸市須磨区の崔敏夫さん(76)が遺族代表として追悼の言葉を述べました。
崔さんは、53歳のときの震災で須磨区の自宅が全壊し、当時20歳の大学生だった次男の秀光(スグァン)さんを亡くしていて、「二男を亡くし、家を焼かれ、全財産を失い、ゼロからの出発ではなくマイナスからの出発は悲しくつらいものでした」と振り返りました。
そのうえで、「悲しみをのり越え、明るく安心して住みよい町づくりをめざし頑張ることが私のつとめであり、息子のためでもあります。『アボジ(父)頑張っているな』と、息子のひと言を聞きたいです」と今の思いを語りました。
まとめ
多くの死者、被害者を出した阪神淡路大震災。
もし地震対策を十分に行っていたらその被害も、抑えることが出来たかもしれません。
私たちにこれから出来ることは、なんでしょうか?
この災害を決して忘れず、対策をきちんと行っていきたいものです。