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大スターディックミネとは?


ディックミネとは、主に戦前から戦後にかけて活躍したジャズやブルースおよび流行歌の歌手兼俳優です。一世を風靡した、と言えるような大スターだったようです。1908年生まれで、82歳で死去していますから、若い世代はディックミネをほとんど知らず、高齢者にファンが多いです。ディックミネが歌った「人生の並木路」と「夜霧のブルース」は、現在でもさまざまな場面で現代の歌い手たちに歌われています。

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写真:discogs.point 61 | com
ディックミネは徳島県徳島市生まれで、東京の大学を卒業後、省庁勤めをします。しかし音楽の道で生きることを決意して退職し、タンゴ楽団の歌手兼ドラマーになります。そこを淡谷のり子に見い出され、ジャズバンドを組んでレコードデビューします。ディックミネはそこで、昭和の大作曲家、古賀政男に才能を見込まれます。古賀政男の勧めで、ディックミネはジャズ以外の流行歌、「二人は若い」などもレコーディングします。「二人は若い」も現在、よく歌われている名曲です。1935年には、朝鮮語の歌も発売しています。ディックミネは朝鮮語が得意であり、彼は朝鮮でも非常に人気がありました。1938年には映画にも出演するようになります。point 364 | 1

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写真:festy.point 65 | jp
1941年に太平洋戦争が始まると、ディックミネは上海に渡って活躍するようになります。上海は当時から、外国人が多く住む都市でした。戦後は再び歌手や俳優として活躍し、司会者としても活動するようになります。後世の人にはわからないことですが、往年のディックミネはかっこいいということで定評のある男性タレントであり、4回も結婚しています。子どもは10人います。マネーメイキングスターでもありましたが、離婚するたびに財産を失い、遺産は残らなかったようです。point 289 | 1

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写真:tapthepop.point 69 | net
老人となったディックミネが、美空ひばりのステージにゲスト出演し、二人で「人生の並木路」を歌った映像が残っています。その歌の最後で、ディックミネが美空ひばりの頬にいきなりキスをしますが、その時美空ひばりは心からうれしそうな表情をします。社交辞令でほほ笑むというのとは違い、心底喜んでいる表情なので、ディックミネが戦前の女性たちにとって、いかに憧れの存在だったかということがわかります。point 263 | 1

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写真:ameblo.point 66 | jp
「人生の並木路」は、古賀政男が作曲した中でも名曲中の名曲と言われている歌です。幼い兄と妹が、たぶんみなしごなのでしょう。家出をしてあてもなくさまようという悲しい歌です。現代では考えもつかないことですが、当時はそういう二人が歩いていても、すぐに保護されるということはなかったでしょうから、ありがちな設定だったと言えます。森進一がその歌を歌うのを聞いていた古賀政男が、ハンカチで涙をぬぐう映像も残っています。森進一は、自身も子ども時代に苦労したと話していますが、この曲を最初に古賀政男から受け取って歌ったディックミネは、戦前という時代においては相当裕福に育っています。point 350 | 1

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写真:oncemore.point 68 | wp-x.point 73 | jp
中央省庁の役人という仕事をあっさりと捨てて、バンド活動をするという決断をしたのには、そうしたことも関わっていそうです。ディックミネには、実のところよくわからない内容だったかもしれませんが、彼が歌った「人生の並木路」は大ヒットし、昭和の名曲として今も歌い継がれています。ディックミネの才能に早くから気づき、曲を提供した古賀政男の見る目はさすがです。古賀政男は、村田英雄の才能も見出し、大歌手に育て上げています。point 279 | 1

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写真:mysound.point 67 | jp
彼は、紅白歌合戦にも6回出場しています。最後に出場したのは、1958年です。もう60年近くも前のことなので、彼の全盛期を知る人はもうあまりいません。当時の映像もあまり放映されないため、知っている人はあまりいなくなっていますが、ビッグスターであったことは往年の彼を知る人々の、言葉のはしばしからうかがえます。point 222 | 1

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