吉さんの父親は、津軽民謡の名手・鎌田稲一さんで、青森県民謡大会で過去ただひとり3連覇を成し遂げた伝説的な人物でした。
吉は、「東京に出て歌手になりたいって言ったら、親父に『バカか』って言われました。やっぱり自分がやってきたからでしょうね。歌謡界と民謡界は違うけれども、そんな簡単に行くもんじゃないよって。頓挫して帰ってくると思ってたらしいですよ。僕のほうは『出てきた以上、帰れねえだろうな』と思ってました。山岡英二時代、地方のキャバレーまわりをしてたんですが、青森に来たときも、心理的に故郷にはまだ寄れない。それが一番つらかったなぁ」と話しました。
続けて、「僕はその一発で終わると思ってた。借金だらけだったから、取りあえず入ってきたお金でみんな返しちゃった。返したら何もないから、また借りなきゃいけない。それで、千昌夫さんに相談したんです」と明かしました。千昌夫さんとは、『俺はぜったい! プレスリー』のヒット中に出会い、意気投合していたといいます。「千さんが、さっき聴かせてくれた『おど』って歌を俺に売ってくれ。お前は『離村者』、あの曲をうちのレコード会社でやれと。そしたらお金貸してあげると」と述べました。
吉さんが作詞作曲した『おど』は『津軽平野』として、『離村者』は『俺ら東京さ行ぐだ』とタイトルを改してレコード発売。いずれも大ヒットとなりました。吉は「両方とも原盤権は千さんが持ってるんですよ。それだけじゃなく『雪國』も『酒よ』も、権利関係は千さんが持ってる。『雪國』1曲で総売上数十億ですよ。権利を売ってくれって言ったら、ヤダって言うんだよね。『いや、これでも(お金が)入ってきてるから』って。『お前は一生離さない』って言ってますよ(笑)。それでも僕が腹立たないっていうんだから」と言いました。
志村さんの人柄を物語る、エピソードについて吉は「前に故郷の五所川原でいくぞうハウスってお店をやってまして、そこで毎年盆踊り大会を開催してたんです。番組で青森に来た志村さんが寄ってくれて、『俺からのプレゼントだ』ってサプライズで花火を30発も打ち上げてくれた。盆踊り大会を中断して、みんなで見ましたよ。車いすで来ていたうちのおふくろに『おかあさん、元気でいなきゃだめだよ』って」と明かしました。
志村さんとはよく一緒にお酒も飲んだこともあり、「あの人と行くと、どうしても朝になるんだよ。そのまま仕事に行くもんだから、酔っ払ったまま朝の生番組に出たこともあります(笑)」と話していました。
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