福島第一原発事故
2011年の福島第一原発事故をめぐって起訴された東電元会長ら3人の公判がはじまり、この事故が“天災”だったのか“人災”だったのかを決する法廷論争が繰り広げられることになる。そして、先月には茨城県大洗町の日本原子力研究開発機構「大洗研究センター」で、保管容器から放射性物質が漏れ、男性作業員5人が被爆する事故が発生した。再び社会の関心が原発に注がれる事態を招いているが、同様に決して忘れてはならない原発にまつわる出来事が1999年に茨城県で起きている。
東海村JCO臨界事故
福島第一原発事故が起るまでは日本で最大の原発事故といわれていたのが、1999年9月30に発生した東海村JCO臨界事故である。施設内で作業員が硝酸ウラニル溶液を沈殿槽に流し込む作業を行っていた際、溶液が臨界状態となり、中性子線などの放射線が大量に放出された。これによって直接被爆した3人の作業員のうち、2名が死亡した。この事故については海外の注目も高く、各国のメディアが報じている。特に亡くなった2人のうちの1人である大内久さん(当時35歳)の83日間にわたる闘病・延命の記録は、多くの海外メディアに取り上げられた。臨界事故により17シーベルトという高レベル放射線を浴びた大内さんは、激しい痛みを覚えるとともに嘔吐し、呼吸困難に陥った後で意識を失った。
すぐに病院に運ばれた大内さんだったが、あまりにも凄まじい被曝量であったため、染色体が破壊され、白血球がほぼゼロになってしまう。身体の大部分は重度の火傷を負ったかのように赤くただれ、影響は内臓にも及んでいた。短時間にこれほど大量の放射線を浴びたケースは日本では初めての事態であり、広島原爆の落下地点と同レベルの被爆であると、オルタナティブメディア「Unbelievable Facts」の記事は指摘している。
83日間の被爆治療
やがて東大病院に移送された大内さんだったが、症状は日増しに悪化の一途を辿った。対策を検討した医師たちは、白血球をつくる細胞を移植する末梢血幹細胞移植手術に踏み切った。大内さんの妹から採取した細胞を、大内さんに移植したのである。さらに、身体のいくつかの部分で皮膚の移植手術も行なわれた。そのままでは、ただれた皮膚から体液が漏れ続けてしまうからである。これらの処置を受けて1週間ほど経つも症状が改善する気配はまったく見えず、結果的には地獄のような苦しみがゆっくりと続く凄惨な死への道のりでもあった。
あの世へ旅立った大内さん
事故から59日目となる11月27日、突然大内さんの心臓が止まる。輸血や薬剤の投与など、医師たちによる必死の蘇生措置により心臓は再び鼓動をはじめたが、再開と停止を3度も繰り返し、止まっていた時間は実に70分にも及ぶという。しかしこの一件は、医師たちと家族に覚悟を決めさせるものであった。12月21日、再び大内さんの心臓が止まった時、その直前に結ばれた医師と家族の取り決めに従って蘇生措置は行なわれなかった。そして事故から83日目、大内さんはあの世へと旅立ったのだ。