ジョージマロリーはイギリスの登山家です。生まれたのは、1886年ですから、日本ではまだ明治時代の半ばという時期です。彼は学生時代に登山の楽しさを知り、20代を通じてイギリスやヨーロッパの各地の山を次々と征服しました。30歳の時に第一次世界大戦が勃発して、ジョージマロリーもイギリス軍の一員として従軍します。そして戦後になって、エベレストへの挑戦が始まるのです。その中であの有名な「そこに山があるからだ」という名言も生まれました。
教師を志したジョージマロリー
写真:musingpanda.com
ジョージマロリーは、牧師の長男として生まれました。家は裕福だったようで、当時の中産階級の人たちの通常のコースである寄宿学校に入学します。
13歳の時には奨学生にも選ばれており、勉強は出来た方だったようです。ジョージマロリーは、この寄宿学校での生活の中で、教師から登山を教わることになります。17歳の時には学校のパーティーに参加して、アルプス山脈の一峰を目指しますが、高山病で登頂出来ませんでした。
ジョージマロリーはその後、名門ケンブリッジ大学に進学します。ここでは登山の他にもボートの選手として活躍しました。
ケンブリッジ卒業後は、地方の大学に教職を得て、そこで教鞭をとりました。その間にも様々な山に挑み続けています。
1911年にはアルプス山脈の名峰、モンブランを征服しています。
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また1913年にはイギリスのピラー・ロックに登頂しました。
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この登頂ルートはマロリー・ルートと呼ばれており、ピラー・ロックの中でも最難関のルートとして知られています。
こうして教師を続けながら登山の経験を積んでいたジョージマロリーですが、30歳の時に第一次世界大戦が始まります。当時、志願兵制を取っていたイギリスですが、ジョージマロリーも兵役に志願して出征します。
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しかし短期間で終わると思われていた戦いは足掛け4年もの長期にわたりました。
そこに山があるからだ
写真:ツイナビ
第一次世界大戦が終わって学校に戻ったジョージマロリーですが、そこでエベレスト行きの話しが持ち上がります。エベレストは当時インドを植民地をしていたイギリスが名づけましたが、未だ登頂した者はいませんでした。このエベレスト遠征にジョージマロリーは実績ある登山家として参加する事になったのです。
教職のままエベレストには行けないという事で、離職したジョージマロリーですが、妻と3人の子どもを抱えての生活は苦しかったようです。
それでも英国山岳会のエベレスト遠征隊に死ぬまでの3年間、参加する事になります。
1921年の第一次遠征隊ではエベレストのルート確認が主でしたが、それでもエベレストの最深部にまで到達しました。犠牲者も出ましたがまずまずの成果だったといえます。
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そしていよいよ登頂に挑む第二次遠征が翌1922年に行われます。この遠征隊でジョージマロリーは3度エベレストの登頂に挑みますがいずれも失敗します。
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三度目の遠征隊が計画されていた頃にあの名言「そこに山があるからだ」がとび出しました。
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これはニューヨークタイムズの記者が「どうしてエベレストに登りたいのか?」との質問に対して答えたものです。直訳すると「なぜならそこにエベレストがあるからだ」となりますが、この意訳によってより普遍的な意味づけがされて、登山家のロマンチックな一面を印象付ける名言となっています。
まとめ
写真:壺公夢想
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そして運命の第3次遠征隊に参加して、相棒のアーヴィンと登頂に挑んだジョージマロリーは遂に帰って来ませんでした。
1920年代のイギリスのエベレスト遠征はこれによって終了し、エベレスト登頂は1953年のヒラリーとテンジンまで待つことになります。
写真:Naverまとめ
写真:thehimalayantimes.com
ジョージマロリーの遺体はその後1999年に遭難場所で発見されました。
写真:BST,INC
遺体発見でジョージマロリーがエベレスト登頂に成功したかどうかが明らかになるのではと期待されましたが、残念ながらその謎は解明されませんでした。エベレスト初登頂の謎は、あの名言と共にこれからも人々の心を引き付け続けるでしょう。