日本でコメディアンである志村けんさんのことを知らない人はほとんどいないと言っても過言ではないでしょう。またお殿様に扮した彼のキャラクターは日本語がわからなくても楽しめるということで外国人の間でも人気となっています。そんな志村けんさんにも下積み時代はあり、最初はドリフターズのリーダーだったいかりや長介さんに弟子入りしたことでも知られています。そんな弟子入りした時のエピソードがすごいと有名な話となっています。
志村けんが弟子入りをしたのは高校卒業と同時期
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志村けんさんは高校3年生の冬に卒業後の進路として芸能界入りすることを考えて、当時人気絶頂だったコント55号かドリフターズのどちらかに弟子入りしようと迷ったといいます。ドリフターズに決めたのは音楽性の点からだったということです。
1968年の2月にドリフターズのリーダーである今は亡きいかりや長介さんの自宅へ押しかけ、真冬で雪が降り続ける中で12時間もいかりやさんが帰宅するのを待っていました。幸いにも1週間ほどで弟子入りを許されたそうですが、いきなり思いついたこととはいえ、それだけの長時間雪の中で待ち続けるのはとても辛かったでしょうから、やる気とガッツを認めてもらえたということなのでしょう。
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ちなみにお笑い界では弟子や付き人として師匠の雑用をこなしながら勉強をするというのは珍しいことではありません。しかしドリフターズの場合、通常のコメディアンの弟子とは違って独特の呼び方がありました。それが「バンドボーイ」です。ただドリフターズ内ではその名前でさえ呼ばれることは少なく、多くの場合、ただ「ボーヤ」と呼ばれていたようです。志村さんは最初はいかりやさんに弟子入りしたのですが、そのいかりやさんから同じメンバーである加藤茶さんの付き人になるように言われて、1年ほど加藤家で世話になったといわれています。
付き人とは思えないほどの高待遇な日々
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加藤家に住み込みで付き人をしていた志村けんさんですが、その時の待遇は付き人とは思えないほど高待遇だったといいます。まず車の運転免許がなかったため、運転は加藤茶さんがしていました。志村さんはその間することもないので、助手席で座っていただけだそうです。また加藤家では加藤さんの母親がごはんを作ってくれるのでそれをごちそうになり、さらにお風呂についても加藤さんより先に入ることも多かったとされています。
しかも社会勉強のためにと途中で付き人をやめて様々なアルバイトをして生活し、その後またドリフターズの付き人へと戻りました。しかし、いかりやさんの元へ直接行きにくかったため、またもや加藤茶さんを頼って口添えをしてもらい、付き人に戻ることを許されました。
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ところが付き人としてついていた期間はその後はそれほど長くもありませんでした。ドリフターズのメンバーの1人だった荒井注さんが脱退を発表したため、その代わりのメンバーとして志村さんが加入することとなったのです。それからの志村さんは加藤茶さんと共にドリフターズでもかなり人気のあるメンバーとして活躍することとなったのでした。
いかりやさんは弟子時代の志村さんを育てるために悪人となり、相当厳しく接したといいます。そういう経験があるからこそ、志村さんは弱い者いじめをすることは大嫌いだということで芸能界では非常に信頼され、人徳者ともいわれています。
まとめ
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志村けんさんがいかりや長介さんに弟子入りしたのは高校卒業間近の1968年2月のことでしたが、雪降る中で12時間も待ち続けたおかげで1週間で弟子入りを許されています。現在でも仲が良いとされる加藤茶さんに付き人としてついていた時代もあり、社会勉強として一度は付き人をやめてしまった時期もありました。
その後再び弟子として出戻りして、しばらくたってからドリフターズの脱退したメンバーの代わりとして加入できたという話はとても有名です。