史実を刻む〜語り継ぐ“戦争と性暴力”〜はテレビ朝日系列の全国24社が共同で制作したドキュメンタリー番組です。
テレビ朝日系列の各局が制作を担当し、独自の視点で制作しています。
厳しい住居環境で生き残るために必要である警護と物資を支給することの見返りで、ソ連兵に女性を差し出すことに協議した黒川開拓団の計画に犠牲された女性の話を扱っています。
ソ連兵の相手に…戦争と性暴力
「黒川開拓団のようなことは二度と繰り返してはいけない。次の世代のみんなに伝えていきたい」。
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18歳以上の未婚の女性を…
日本政府は1931年の満州事変後、中国東北部を占領し、満州国を建国しました。
「100万戸移住計画」を閣議決定、村に補助金を出すなどして積極的に推し進めました。
結果、全国各地から800以上の開拓団、およそ27万人が入植しました。
しかし”開拓”とは名ばかりで、多くは中国人が開墾した土地を安い値段で立ち退かせていました。
そして岐阜県・旧黒川村から渡った600人余りが暮らしたのが、満州国の首都・新京とハルビンの間にある陶頼昭です。
しかし日本の敗戦間際、ソ連軍が満州に侵攻しました。
敗走する関東軍に置き去りにされた開拓団は、ソ連兵や現地住民の略奪に遭いました。
小学6年まで現地にいた安江菊美さん(85、当時7)の記憶に焼き付いているのは、当時の緊迫した状況だ。
「自決するなら黒川開拓団で一緒に死ぬからと言うことで、白鉢巻してその人たちが(避難場所に)引き揚げて来られた。そりゃもう異様だよ。今日死ぬか明日死ぬかという時の。その日から着の身着のままで寝た。私たちのお母さんも刀を持って、”小さい子から殺して自分も死ぬから、お前は大きいから自分で死になさい”と」(菊美さん)
「喋るのは恥ずかしいとは全く思いません」声を上げ始めた女性たち
「本当に悲しかったけども、泣きながらそういう将校の相手をしなければいけない。辱めを受けながら、情けない思いをしながら、人生を無駄にしながら」。
「自分たちが犠牲になって開拓団を救ったのに、タブーにして、誰一人として口にも出さない状況が続いたのが一番つらかったんじゃないかなと思った」。
「(ソ連兵に)銃を背負ってやられるんだもの、怖いじゃない。暴発でもしたらと思って。心臓はバクバク。反抗したら殺される、強姦だと思った。暴力よ。殺されたくない。17歳で、これからの人生なのにね」。
「地獄」のようだった接待所生活
つまり「接待」は、親や兄弟のいるすぐそばで行われたことになりました。
「当番を決めてあったんですね。今夜はこの人、明日はこの人、と回ってきて。皆さん病気になり、順に亡くなって行きましてね」(ハルエさん)。
「ホースを子宮まで突っ込んで、軍隊のうがい薬で洗浄するのよ。冷たい水で。零下30度、40度下がるとこだしね。私も本当に泣いて洗浄するしね、洗浄を受ける者も泣くしね。本当の地獄ってこういうものかと」。「病気になった人はいる。凄かったよ。淋病をもらった人を一回見せてもらったけど、後ろが膿でがばがばになってる、一晩中、痛くて寝られないんだって。その人は死んじゃったけどね。あれだけ酷くなれば死んじゃうよ」(幸子さん)。
誹謗中傷を受けた戦後、告白を受け止めた家族
事実は長い間、封印されて来ました。
「ここで乳搾りやりましたけどね。大きな借金して」。
そうして戦後を生き抜いてきた女性たちの告白は、家族にとっても重たい事実だったんです。
ハルエさんの長男、茂喜さん(65)は
政治は、誰を守るためにあるのか…。
「思い出すと本当に鮮明に、映画を見てるみたいに出てくる。何で私はこの世に生まれてくるのにこんなことがあったんだろうと思い出すと寝れない。泣いたり、胸がどっどっとしたり、今でも、今でもよ」(幸子さん)
戦後生まれの遺族会会長の一言
これまでも地元の小学校や中学校で、開拓団の体験者の話を聞く授業を進めてきたが、そこでは伝えられてこなかった「性暴力」の史実について、女性たちのもとに何度も足を運び、当時の話を聞き取ってきました。
「本当にハルエさんたちのおかげで僕らは今生きてると思うし。まず話を聞いてあげたり、少しでも気持ちを和らげると言うか、寄り添うと言うか」。
「あったことを無かったことのようにしてきたことが、どうしても理解できない。今言ってよいのか分からないけど、黒川開拓団はやってはいけないことをやったと」という反応がありました。
遺族会での議論を振り返り、新田貞夫さん(83)は「反対もありましたね。私はよかったと思います」、両親が開拓団だった藤井拓男さん(69)も「自分たち2世と、先人の人たちとの思いも違うところがあって」と話しました。
「(犠牲になった)15人の方の親族を回った。どなたも反対する人はいなかったし、喜んで頂いたというか励みになった。歴史の先生とか、そういう人たちにも表現などを見てもらって」(藤井さん)。そんな藤井さんについて、菊美さんは「宏之さんは責任を感じてるわけ。書き直しては”これでいいか、これでいいか”と。何枚紙を貰ったやら」と振り返りました。
生きとる者の使命
黒川開拓団の所在地である岐阜県は、黒川開拓団に犠牲された乙女たちを追悼する碑を立てました。
岐阜大学の学生たちも乙女の碑を訪れ、その所感を述べました。
孫の世代も連れて現地を訪問
「女性たちは逃げたかったが、団全体の生死が関わる事態に「嫌だ」とは言えず、交代で相手をさせられた。日本への引き上げ後も恐怖は脳裏に焼き付き、そのうえ中傷もされた。」
「色んな人たちが読んで、やはり戦争をしてはいけないな、 黒川開拓団のような思いをさせてはいけないな、という思いを持って欲しい。平和は当たり前に続かないので」と藤井さんが、
泉さんも
藤井さんにとっては12回目の訪問だが、今回は開拓団の孫の世代も連れての訪問です。
開拓団員だった藤井欽雄さん(82)が
建物は取り壊され、雑草の中に別の廃墟が建っていました。
泉さんは「22歳の女の子がそんなことを決断しないといけないと。本当に壮絶だったと思いますよ」と、
まとめ
勇気と覚悟をもって告白した女性たちと、それを受け止めた黒川開拓団の遺族たち。その思いは確実に次の世代に伝わっています。
「碑文を書いて貰った方がいいんです。そういう歴史があったことを伝えて行かなきゃならんでしょう。そういう事を伝えていくのが生きとる者の使命じゃないですか。本当にはっきりした碑文になって、死んでも後悔はありません」。
ハルエさんはそう訴えていました。
残酷だった歴史の奇跡を忘れぱなしにしてはいけないでしょう。もう一度繰り返さないようにすること、生き残っている私たちの課題ですね。