「俺、このままじゃ、死んじゃうかも」
…電話越しの息子は泣いていた。もう迷いはなかった。吹っ切れた。息子を救い出すと覚悟を決めた。
都内に住むAくん、中学卒業した後に親元を離れ、東海地方の高校に進みました。彼は野球部に入って、寮生活を送りながら甲子園を目指していました。しかし、入部してからわずか2カ月後、指導者からは日常のように暴力を振るわれて、暴言を浴びせられるようになったのです。
実はこの指導者は、彼が中学時代に通った野球クラブの監督だったそうで、高校野球部の指導者に転身するのをきっかけに、「一緒に甲子園に行こう」とスカウトされたのです。
Aくんは指導者のその言葉を支えにこれまで体罰を耐えてきたが…体は正直でした。
入部した当初には体重90キロを誇ったパワー自慢の大型内野手は、9カ月後の年明けに71キロまでやせ細ったのです。やつれて目の輝きも失っていくわが子の姿には、両親は居てもたってもいられませんでした。
ある程度の厳しさは覚悟していたそうです。「プロ野球選手になりたい」という野球少年の夢は、いつしか両親の夢ともなって、Aくんの背中を押し続けてきました。
「(指導者は)中学の頃から教えてきたんだから、厳しくなっちゃうのは当たり前だよ」と励ましてくれた母親、父親も甲子園に憧れた自身の青春時代を思い出して、「殴られる程度のことはよくあった」と奮起を促していました。
だが、電話越しのわが子が発した「SOS」に、両親はついに目を覚ましました…
それは、脳裏によぎった、ある“事件”でした。Aくんが入部してから数カ月後、Aくんが通う高校の近くの踏切で、他校の野球部員が電車に飛び込んで亡くなった事件です。この部員は、亡くなった直前に自校の指導者から厳しく叱責されていたそうで、わが子の「死」は決して杞憂ではなく、十分に起こり得たことです。そこで退部、そして退学を決めました。
強くなるためには厳しさが必要―。
その呪縛は、多くの保護者が共有していることで、Aくんの家族も、指導者の無関心という“体罰”に苦しめられるまではその1人でした。
「高校野球では、選手は指導者と戦わなくてはならない。厳しさへの耐性を身に付けるよう鍛えてきたはずだった」
地元の野球クラブの監督を務めるある男性は、中学生だった息子のBくんを指導していました。しかし、男性の妻曰く、男性は「息子にとって誰よりも怖い存在だった」。グラウンド上でも私生活でも、叱責するときは鬼の形相だったといいます。「将来、厳しい指導者の『圧』にもくじけない選手に育ってほしい」という思いが、そこには込められていたでしょう。
先輩に幾度となく殴られて、口に雑草をねじ込まれて、グラブのひもを繰り返して切り裂かれたBくん。いじめ被害を訴えても指導者や学校からは無関心を貫かれて、繰り返される窃盗被害は「管理が悪い。自己責任」で済まされてきました。その誠意のない対応に我慢の限界を超えて、Bくんは2年生の6月に退部し、退学することになりました。
実は、Bさんが入部した直後、新入部員の保護者たちは集められ、総監督からこのように伝えられました。
「部内に問題が起こったら、相談、報告の届け出は父母会長にしてください。絶対に学校、高野連(高校野球連盟)には伝えないでください」
このルールが、体罰“もみ消し”の温床となってしまったのです。
Bくんが被害に遭った野球部寮では、週に1度の窃盗や、先輩による暴力などを父母会長に繰り返し報告したが、「まあ、まあ」となだめられるだけでした。具体的な対策は講じられず、学校に告発しても責任を転嫁されたそうです。
「父母会への報告を優先するルールは他の学校にも多くあると聞く。指導者や学校が考えるのは選手のことではなく、自分たちの保身。泣き寝入りした保護者はたくさんいるのではないか」
残された選択肢は、所属する高野連への告発だが…ここでもまたルールが障壁となっています。指導者の暴力というのは、指導者個人の責任となるのが一般的です。だが、部員間の暴力に関しては、チーム単位での謹慎や対外試合を禁止される場合があります。
息子のBくんを守ろうとした父親、「連帯責任になる恐れがあり、高野連には報告できなかった」と振り返っていました。
先輩からのいじめに打ちひしがれたわが子を支えてくれて、現在でも連絡を取り合っている同学年のチームメートたちの姿が思い浮かび、「迷惑は掛けられない」と沈黙していました…
また、北陸地方の強豪校に通ったCくんも、指導者による体罰を周囲に明かせなかった過去を悔いています。
「(体罰を告発した結果、部員間による)部内暴力まで一緒にばれたら出場停止もありうる」
「みんな大会に出るために練習してきたんだぞ。外部には何があっても絶対、体罰を漏らすな」
どうやら、先輩たちから強く口止めされていたようです。
「家庭訪問に行くと、必ず『うちの子を厳しく指導して下さい』と頼まれた。今はもう全く聞かなくなったね」
神奈川県立相模原高校(相模原市中央区)の野球部を強豪校に育て上げた佐相真澄監督(60)は、保護者たちの価値観の変化を話してくれました。
法政大学第二高校、日本体育大学の野球部で活躍し、卒業後は相模原市内の中学校教員に着任した。「中学野球で全国大会に出る」「校内暴力をなくす」ことを自らに課した。
教壇に立ち始めたのは1980年代、当時は校内暴力が全国的にまん延して、着任校も同様だったそうです。当時の野球部保護者会の会長は、「俺たちは、金は出しても口は出すな」と保護者たちに訴え掛けて、教員たちの“実力”による解決を後押していました。
変化を感じたのは2000年頃、いじめをしていた生徒を厳しく叱っていたら、保護者が不満を訴えました。その手には、ボイスレコーダーが握り締められて、当時の校長からも「もう時代は変わったんだ」と謝罪を促されたそうです。
2005年に高校教諭へ転身して、公立校で甲子園を目指すようになりましたが、体罰は「当然、なくすべきもの」と考える一方、「厳しさ」を欠いた指導を否定していました。
「ほめて伸ばすだけでは欠点は減らない。『ミスをしてはいけない』という前提が頭にあればミスは減り、強みが際立ってくる」
ただ、時代の流れに合わせて、その厳しさを前面に押し出すのは控えて、むしろ保護者をいかに味方に付けるかに関心が大きかったそうです。
中学生を指導していた20代の頃は「主力」と「控え」の選手を公平に見極めるために、「指導者が保護者と仲良くすることはもってのほか」と考えていたそうです。しかし、時代に合わせて自身の価値観も変化し、保護者の目線になって考えるようになってからは、支えてもらうことでチームも活気づくと考えるようになったそうです。
「選手と保護者と指導者。みんなが一体となってチームをつくっていく。今の時代に求められている方法だと思うし、今になって新しい楽しみが増えたよ」
年に5度、保護者が主催する壮行会などで飲食店で野球談義を交わしたり、マイクを片手にカラオケを楽しんだりして交流を深めているそうです。