1980年にシングル「嵐の金曜日」でデビューを果たしたハウンドドッグは、1985年にリリースした「ff(フォルティシモ)」がヒットしたことで一躍、日本のロックシーンを代表するような人気ロックバンドとなり、80年代に到来したバンドブームを牽引しました。
ヒット曲がない状態で日本武道館でライブを行って1万人のオーディエンスを集めたり、バンドとしての絶頂期だった1990年には日本武道館で15日連続公演を行うなど、高い観客動員力を誇る人気ロックバンドでしたが、1990年後半になるとシングルやアルバムの売上も低下して、ライブへの観客動員数も落ちていったのです。
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ハウンドドッグの現在は?
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バンド活動がうまくいかなくなるとメンバー間の関係が悪化して解散するロックバンドが多いですが、ハウンドドッグの場合は解散よりもひどい状態になり、現在では所属メンバーがヴォーカルの大友康平だけとなってしまっています。
崩壊劇が始まったのは?
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ヴォーカルの大友康平、ギターの八島順一と西山毅、キーボードの蓑輪単志、ベースの鮫島秀樹、ドラムの橋本章司という6人体制のロックバンドとして一時代を築いたハウンドドッグが崩壊へと向かったのは、メジャーデビュー25周年を迎えた2005年のことです。
ハウンドドッグのリーダーである大友康平が当時の所属事務所と今後のバンド活動について話し合いを行ったときに意見が対立し、それをきっかけに個人事務所のイエホックを立ち上げて独立したことから崩壊劇が始まりました。
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独立時に大友康平は蓑輪単志と鮫島秀樹の2人のメンバーを除いた4人でハウンドドッグとしての活動を続けていくことを発表しました。
後に行われた裁判で大友康平は、この2人をメンバーから外した理由として蓑輪単志は元の事務所会長が提言したという解散ツアー案に同意したため、鮫島秀樹は元事務所と密接な関係があり情報が漏れることがあるなど信用できなかったと語っています。
ただ、ハウンドドッグのバンド活動存続に関する問題はこれだけでは終わりませんでした。
訴訟問題まであった?
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新たな事務所・イエホックで再スタートを切ったハウンドドッグでしたが、翌2006年に大友康平・イエホック側と西山毅、八島順一、橋本章司の間に確執があることが表面化したのです。
結果、大友康平は自分一人でハウンドドッグを続けていくことを宣言し、一人体制になったハウンドドッグは以降はサポートメンバーを入れて活動するようになったのです。
そして、ハウンドドッグの崩壊劇をさらに複雑にしているのが数々の訴訟問題です。
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元の所属事務所は大友康平に対して事務所を通さず企業イベントに出演したことやコンサート出演義務違反を理由に3214万円の損害賠償請求訴訟を起こし、西山毅、八島順一、橋本章司の3人には対外的信用を失わせたとして1100万円の損害賠償と謝罪広告掲載を求める訴訟を起こしました。
また、最初にメンバーから外された蓑輪単志と鮫島秀樹は大友康平、西山毅、八島順一、橋本章司の4人に対して「ハウンドドッグ」という名称の使用権はメンバー6人に帰属することと、バンドへの復帰を求めた訴訟を起こしています。
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このように、一時代を築き上げたハウンドドッグが崩壊していったのはメンバー同士の闘争が原因ということだけではなく、メンバー・所属事務所を巻き込んだもっと複雑な理由があるのです。
ただ、全盛期を知るファンからすると、これだけの泥沼劇を経て活動を存続するのであればきれいに解散して欲しかったと思う人が多いと思います。