誰もが名前を知っているといっても過言ではない、昭和を代表する大物スター石原裕次郎。そんな石原裕次郎の死因節には色々な噂が飛び交っていました。更には、あの大物歌手松田聖子愛人説まで?!大物スター石原裕次郎の経歴と噂の真相について、一緒に見ていきましょう。
石原裕次郎のプロフィール
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本名: 石原 裕次郎
生年月日:1934年12月28日
没年月日:1987年7月17日(52歳没)
出生地:兵庫県神戸市須磨区
血液型:A型
石原裕次郎の【来歴】デビューのきっかけ・現在の活動
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石原裕次郎は、兵庫県神戸市須磨区、北海道小樽市、神奈川県逗子市で育ちました。父である石原潔さん(山下汽船社員)は愛媛県、母の光子さんは広島県宮島の出身でした。マリア幼稚園を(現在の小樽藤幼稚園)卒園しています。稲穂国民学校時代には競泳や天狗山でスキーに親しむなど、アクティブな過去を持っています。逗子中学校時代には、バスケットボールに熱中しました。その後、慶應義塾高等学校を目指しましたが受験に失敗し、慶應義塾農業高等学校に籍を置きました。しかし、1951年に慶應義塾高等学校に編入学します。卒業後は、慶應義塾大学法学部政治学科に内部進学をしたものの、放蕩生活に明け暮れました。大学在学中から俳優を目指して東宝と大映、日活のオーディションを受けるも全て不合格でした。しかし、1956年に映画プロデューサー水の江瀧子と、兄・慎太郎の推薦のおかげで、慎太郎の芥川賞受賞作『太陽の季節』の映画化の端役で映画デビューを果たします。その後、慶應義塾大学を中退して日活に入社しました。
石原裕次郎【性格・エピソード】
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日活は、石原のプロフィールを身長182cm、股下90cmとして公称して日本人離れしたスタイルをアピールしました。しかし、実際のところは身長178cm、股下80cmだったと言われています。それでも当時の日本人の体型からしては、大柄で抜群のスタイルでした。愛称は「タフガイ」。現代劇で活躍するのに十分な資質を持ち合わせていました。また、石原裕次郎は、戦後日本が経済成長とげた時期に活躍をしたことと相まって、「もはや戦後ではない」という言葉を象徴的する銀幕スターとも言われています。また、石原裕次郎はトップスターでありながら、台詞覚えが悪いことでも知られています。刑事ドラマの「太陽にほえろ!」では、いつも机に向かっている役でしたが、実は机の引き出しに台本を忍ばせていたそうです。
【噂話その1】石原裕次郎と松田聖子の関係!?
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石原裕次郎と、大物歌手の松田聖子が歌番組で共演した際に、デュエットをしたことがあったそうです。その二人の姿は、まさに愛する二人のようだったと言われています。松田聖子は石原プロ所属の神田正輝と結婚し、子供には神田沙也加がいます。しかし、噂によるとこの結婚は石原裕次郎との愛人関係を隠すためのものだったという説があるのです。デュエットの際には、肩を抱きかかえるシーンもあったとか。いくらデュエットだからとはいえ、相手は大物女性歌手、ファンもたくさんいる中、嫉妬が飛び交うことは間違いなかったと思います。そんな二人のデュエット姿を見た視聴者は、二人が愛人関係と思った方が多かったのではないでしょうか。
【噂話その2】石原裕次郎の死因とは…
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石原裕次郎は52歳という若さで生涯を終えましたが、死因には2つの説が飛び交っています。一つは梅毒による死。昭和を代表する大スターの石原裕次郎は、スケールのでかさは夜遊びでも例外ではなかったそうです。梅毒は感染症であり、性病の代表格です。石原裕次郎に子供がいなかったのは、梅毒が原因で子供を作らなかったのではという噂も出ています。もう一つの死因節は、腹上死だとか。しかし、公式には肝臓癌が理由として公表されていました。この二つの死因の噂は今もなお浮上しているのだとか。
まとめ
昭和を代表する大物スター、石原裕次郎。52歳という決して長くない彼の人生は波乱万丈であり、大物さながらの様々な噂が飛び交っていました。真相が未だにわからない噂もありますが、大物スター石原裕次郎の歴史は多くの人々の心の中で今もなお生き続けていることでしょう。